米国人ジャーナリスト ビル・ロバーツ氏著《素顔の大本》より 第8章「吉岡発言」

2006年2月3日発行の「A Portrait of Oomoto 」(素顔の大本)の和訳を連載します。この本は、日本語を読まない外国人を対象に、英文で大本を理解してもらうため、当時の大本国際部から、ジャーナリストのビル•ロバーツ氏(ピュリツァー賞受賞者)に執筆依頼し、発行となりました。一人の未信徒の米国知識人の目から、大本を客観的に披露しています。発行から14年たち、内容的には、現在進行形ではありませんが、今でも興味深く読める点がたくさんあります。最初から順に紹介するのではなく、章ごとにピックアップして発表します。今回は、第8章「吉岡発言」を掲載します。
                                          和訳 矢野裕巳

第8章「吉岡発言」

 

「世界平和は全世界が軍備をなくした時にやってくる、その時は近づいている」
              ー出口王仁三郎ー

 
 

 王仁三郎は1942年暮れに出獄して以来、霊界物語の執筆を再開することはありませんでした。彼は、その創造的エネルギーを茶碗の制作に向けたのです。重要な執筆は終えていたのですが、最終的な預言を示す仕事はまだ終えていませんでした。1945年、第2次世界大戦終結から数カ月後、第2次大本事件での告発はすべて取り下げられ、お気に入りの鳥取県の吉岡温泉の旅館で28日間を過ごしました。亀岡から北西200km離れています。王仁三郎の最後の訪問地で、1945年12月から1946年1月までの滞在の中で、最後の公的に配信された声明を発表しました。それは、吉岡発言と呼ばれています。その59年後、2004年12月に私は吉岡を訪れました。
 吉岡は鳥取県の中でも古風な趣のある村で、その周囲にも温泉に囲まれた、絵から抜け出たような村が点在していました。吉岡は鳥取市の中心から10km程離れ、日本海を望む、広い海岸に沿った平野に位置しています。鳥取は日本で最も人口が少ない県です。鳥取はほぼ2、000mの山脈があり、岩の露出によって遮られた長い砂浜、あたりは肥沃な農地で海岸近くの広い帯状の土地から、小高い山に囲まれた狭い土地へと広がっています。農業と漁業が主な産業です。
 温泉、海岸、山々、そして日本有数の蟹の産地として、観光業は重要で、国内の旅行者、そして多くの韓国からの観光客がいます。鳥取砂丘は海風によって粗造された、ブロンド色の川の大量沈泥堆積物であり、1年を通じて魅力ある観光地です。ミシガン湖東岸のビッグ•ベア砂丘を思い起こします。県全体の雰囲気は、60年代に私が10代を過ごしたカルフォルニアのモントレーを幾分彷彿させます。
 王仁三郎が昇天した1948年ごろ、大本は吉岡に、王仁三郎が滞在した2階建ての旅館を取得。鳥取本苑として、2階をご神前にしました。木造の旅館は複雑に入り組んだ部屋があり、長いくねった廊下がありました。建物の平面図はチャイニーズパズルのように整然としていました。旅館内には専用の温泉があります。大本の神の家で、温泉のある本苑はここだけでしょう。床のきしみは恐ろしかった。恐る恐る、廊下の奥の私の休憩の部屋へと歩きました。唯一全くかびのない部屋でした。窓を開けると手入れのされていない庭があり、野良猫がうろついていました。60年前、下の部屋で王仁三郎が寝ていました。1946年の元旦、そして王仁三郎の滞在期間中、多くの人がこの部屋で、王仁三郎に面会しました。部屋の近くに洋式のトイレがありました。それは、膝から顎までの高さの、つぶれそうなトイレでした。おそらく水洗トイレが発明されて以来、もっとも小さなものと思われます。時代と共に、旅館は老朽化し、火災時にきわめて危険な建物になっていました。
 月次祭後の4時間におよぶ議論の末、信者は新しい神の家の建設を決めました。予算はおよそ1億5千万円(150万ドル)。地元の信者の献金からです。計画には、異論が出ました。一時的な本苑の移動の問題、王仁三郎がかつて滞在した歴史的な部屋の消滅に関わってくるからです。信徒は、経済的に可能な保存にまでたどりつきました。3年の任期で選出された無給職の本苑長、田賀紀之氏は私に語ってくれました。旧建物の古い材木の一部を、特別な方法で新しいご神前に使うという結論でした。鳥取本苑訪問から6カ月経ったある日、本苑長は亀岡に来られました。計画の青写真の束を抱えて。とても誇らしげにそれを私に見せてくれました。大本の建築専門家との会合へ向う途中でした。その計画はまもなくゴーサインを手に入れました。
 50代後半の田賀本苑長はテキパキと仕事をこなし、自信にあふれていました。県の上級公務員で、建設を含めて、本苑に対する一つのビジョンを持っていました。鳥取の信徒世帯数は300。その他の神の家同様に、信徒数は減少していました。他の神の家の長と比べて、田賀は新しい信徒家族を取りこもうとする計画を持っていたように思われました。特派宣伝使と協力して、現在の信徒が大本を離れるのを食い止めようとしていました。大本本部は、およそ12人の特派宣伝使を任命、地方に派遣し、その活動を報告させていました。45歳の時松太は、鳥取県と島根県の担当として4カ月前に赴任していました。私たちが鳥取に滞在していた間にも、時松は2つの信徒家庭を訪問していました。その家族は、旧世代、つまり父親が亡くなった後、若い世代、つまり長男家族が大本を引き継ぐか、それとも別の宗教へ、それは、ほぼ地元の仏教でしが、その相談でした。鳥取での時松の仕事の多くは、すでに存在する信徒家族を何とかそのままとどめておくことでした。時松は思慮深い人物で、高校時代は名門野球部の投手でした。彼は、私に語ってくれました。「鳥取のような地域はまだ古い伝統が残っており、大黒柱が亡くなると、次の世代に受け継がれ、どの宗教を信仰するかのような重要なことが決定されるのです」

田賀紀之氏(左)と時松太氏(右)



ボクサーのようなタフさで

 

 筧邦麿は、信仰2世で、鳥取での私のインタビューの重要な人物の1人でした。亡くなったお父さんは筧清澄で、王仁三郎の秘書であり、吉岡発言の内容を含めて校正作業も行いました。月次祭の後、本苑建設に関する役員会議をしている間、筧と私は、私の休憩室で会いました。私たちはお父さんの話になりましたが、2世の息子の脱線話も大いに聞くに値しました。

 大本は特徴ある人物には事欠きませんが、もし、もっとも忘れられない人物コンテストを開催すれば、筧邦麿は、強力な優勝候補の一人でしょう。67歳、その半分の年齢の人が持つ気迫と熱情を兼ね備えていました。筧は1960年代から70年代にかけて大本国際部に勤務。当時は英語もかなりできたようで、フレデリック•フランクの「大本との出会い」執筆に協力した2人のうちの1人でした。筧はかなりのインテリですが、自己の主張に強硬すぎるところがありました。大学でボクシングをしていた彼は、戦いの場を大本へ移しました。大本は人を解雇しませんが、彼の場合はかなり、それに近い形でした。彼は、自分の望む仕事が与えられないなどの理由で、大本勤務から離れます。現在は仕事をせず、生まれ故郷の鳥取に戻り数年がたっていると、インタビューで答えてくれました。
 彼の英語はブロークンですが、しばらく使っていないことを考えれば、十分に理解できます。大声で饒舌、何度も私の脚を叩きました。筧は親しみを込めた表現だったと思いますが、私はまるでボクサーに殴られているようでした。まだまだ元気で、張りつめた気持ちを持った彼の激高さは、握手に現れます。普通の日本人は、めったに握手はしませんが、彼はひんぱんに手を差し出し、毎回、力いっぱい私の手を握りました。いろいろと騒々しくても、彼は思慮深い人物で、会話の中で、ヘミングウェイの「老人と海」についてさりげなく語りました。愛情を込めて、その登場人物のサンチャゴについて述べます。あたかも、ある種の親近感を覚えているように。筧は写真、手紙、そしてその他の書類を持ってきました。五代教主の10代の白黒写真も私に見せてくれました。これについては3章をご覧ください。

 「当時から、紅さんが教主になられると私は思っていました」と彼は主張しました。五代教主について、長く話せば話す程、筧は涙ぐんできました。「彼女は祈りと芸術を真剣にとらえていました。そして協調的です。恥ずかしがりでおとなしい女の子でした。父は、王仁三郎の預言として五代教主の時代になると多くの人が学びを求めて大本にやってくると。私は彼女は芸術の偉大なる実践者であると思います。それは、王仁三郎が預言したことで、だから私は彼女を賞賛するのです」
 筧は、王仁三郎が最後に吉岡を訪問した時、会っています。筧はその時の写真を見せてくれました。白髪で、しわの寄った王仁三郎と、筧を含む数人の男の子が写っていました。
 「王仁三郎はどんな感じでしたか?」 私は尋ねました。
 「誰をも同じように扱っていました。とても素晴らしかったです。村の普通の、やさしいお爺さんといった感じでした」 
 筧は素晴らしい話をしてくれましたが、その半分は、多少調子のいい話のようでした。その他の人たちが、筧の父親や王仁三郎について彼が話した内容の裏付けをしてくれました。20世紀が20年過ぎたころのある日、筧の父親は鳥取を離れ、東京の大学で政治学を学んでいました。大志を抱いていたのです。それは、総理大臣になることでした。最終的には政治をあきらめ、故郷の鳥取に戻りジャーナリストになりました。その後間もなく、奇妙な夢を何度も見ました。その1つは、白髪の老女が綾部に行けというものでした。綾部をその時初めて知りました。地図で見つけました。決心をして、大本を訪問、王仁三郎と面会しました。なぜか、王仁三郎はその到着を待っていました。
 「君が来るのを待っていたよ」と、王仁三郎は筧清澄に言いました。 清澄は王仁三郎に夢の話をしました。
 「知っているよ。それは、なおのことだ、ここ綾部で1年前に亡くなっている」
 筧は大本に入信、綾部に居を構えました。学歴と技能を生かして、王仁三郎の秘書になり、執筆や校正に関わりました。ただ、霊界物語発行には関わりませんでした。1933年、王仁三郎は筧を最初の国際宣伝使としてタイ、ベトナム、そしてシンガポールに派遣しました。1935年、第2次大本事件で当局は、筧を拘束、3年間投獄、拷問を続けました。
 「父は非常に頑強で、武道家でした」邦麿は言います。「自白強要には屈せず、それで、ますます厳しい拷問の対象になりました。最後には釈放されましたが、凄惨な拷問で体がぼろぼろになり、牢獄に置いておけなくなったからです」
 清澄は回復し、王仁三郎の最後の吉岡訪問にも同行します。邦麿によれば、その時、王仁三郎は膨大な内容を口述したようです。その多くは公表されていません。一部は清澄が校正し、新聞で発表されました。1945年12月28日に、声明として配られ、12月30日の新聞記事に掲載されました。後に、邦麿は父の保管文書のなかに、未発表分を発見、学者に提供しました。清澄は、1960年に亡くなる前、大本に関する重要な書籍を執筆した、フリーの著述家の、長時間に渡るインタビューを受けました。
 公表された吉岡発言は、短いもので、恐らく500字程でした。その中の一つ、神道は人質状態になり、政府に悪用された、と述べています。日本人は神を忘れてはダメだ、たとえ民主主義の時代になっても。そして、これから日本は世界の非武装に貢献しなければならないと:『日本は今、完全に武装解除された、そして、世界平和の開拓者としての尊い使命が与えられた。真の世界平和は全世界が武器を置いた時であり、その時代は近づいている』
 21世紀の現在も、大本信徒はその言葉に沿って活動を続けています。
 筧邦麿は、未発表の部分が、より興味深い内容である、と語りました。たとえば、王仁三郎は、新しい将来の農業技術について語っていますが、その技術は大本信徒によって開発されました。広島、長崎の原爆投下は、一つの現れで、もし世界がその方向性を間違えば、さらなる悪夢がやってくると預言。次は、資本主義のアメリカと共産主義のソビエトとの争いになる、しかし、両者が直接戦火を交えることはないとも、話しています。
 岩崎國夫によれば、王仁三郎は、吉岡で共産主義について多くを語っています。岩崎は鳥取の西隣、島根県の出身です。岩崎は1945年の暮れに、吉岡で王仁三郎に会っています。私が亀岡で岩崎にインタビューしたのは、彼が85歳の時。教団から退職する前で、当時は大本副本部長でした。岩崎は、半世紀におよぶ生涯の多くを、綾部の長生殿や亀岡の建物等、教団のあらゆる建築に携わりました。
 1945年、岩崎は九州、熊本での陸軍教官生活を終えて、軍の除隊を受けた直後でした。岩崎は、他の元兵士と共に反共グループを結成していました。中国やソビエトから、戦いに敗れて日本に帰還する兵士が、怒りの、そして過激な共産主義者になって戻ってくることを恐れました。誰かが、大本について岩崎に語りました。岩崎は大本についての本を読み、王仁三郎に会って確かめようとしました。列車と徒歩で亀岡、綾部に行きました。そこには数人の信徒と、あとは、がれきの山でした。綾部では出口すみこ二代教主に面会。すみこから、島根に戻る途中、鳥取滞在の王仁三郎に会うように言われました。島根には、岩崎の父親が農地を持っていました。岩崎は、鳥取駅から、40センチの積雪のなかを、徒歩で吉岡に向かいました。1日中かかった王仁三郎との面談で、彼は、厳格なる反共産主義者でないことがわかりました。
 王仁三郎は「戦後は、共産主義と資本主義の戦いになる」と言いました。岩崎は語ります。「大本は1種の共産主義を支持しています。でも神を無視したソビエト共産主義はダメ。大本が真の共産主義を提案するのです」
 「共産主義は過激ですよね」と、私は言いました。

岩崎國夫氏
田中正輝氏

 岩崎が憶測するに、王仁三郎の意味するのは、神の下での、経済的、社会的平等でした。なおの筆先は、利己的な資本主義が世界に広まり、裕福な者の不正ゲームが続き、資源を管理、貧しい者からの搾取がはびこっているとの警告と批判にあふれています。筆先がいう、立て替え、立て直された世界では、すべての人は平等で、幸せ、そして神を敬うのです。吉岡での王仁三郎発言は、終戦直後、そして彼の人生が終わりに近づいていることを考えれば、筆先の理念と同じものをここで発表したことは、驚くべきことではなかったのです。王仁三郎のいう共産主義は、われわれアメリカ人が、冷戦時代に反対したソビエト帝国の硬直さ、混乱を招く共産主義ではなかったのです。王仁三郎は、自由の大切さ、人権の擁護、企業活動の重要性を認識していました。しかし、王仁三郎は明白に共産主義的な視点を支持していたのです。一つの世界をめざす大本の活動を予見しています。そのような世界になって初めて、公平な世界が構築されると信徒は考えています。21世紀になって、大本の中心的な信徒の中に、自身が企業家でありビジネスマンであって、1つの世界を支持する人がいます。
 岩崎は続けます。「王仁三郎によれば、大本は本当の神の下にある共産主義なのです。そしてすべての人が幸せで、真に平等でなければなりません。神を無視してはダメ、つまりソビエト式共産主義ではない、共産主義です。そういう時代が必ず来ます」
   「その他に、王仁三郎とのことで覚えていることは?」
 「王仁三郎が言ったことで私が一番覚えていることは、どうして日本は戦争に突入し、敗戦を経験したのか?それは、神を忘れ、神への信仰を失ったからだ、と言われたことです。米国は、日本を一掃してくれる重要な役割を果たしたのでした。でも、もし米国が謙虚さを失えば、今の日本のようになるのだと」
 岩崎は大本信徒になり、1948年に亀岡にやってきました。
 王仁三郎が、吉岡で関与したのは、元兵士ばかりではありません。温泉旅館の近くに1人の大本信徒が住んでいました。3人の息子と1人の娘がいました。子供はすべて、戦時中、戦地に行きました。長年、子供の誰からも消息がありませんでした。生きているのか?すでに亡くなっているのか?信徒は王仁三郎に助けを求めました。
 その息子の1人が田中正輝でした。85歳の彼に、私は、彼の父親と王仁三郎が会った、その同じ部屋で正輝にインタビューしました。信仰歴60年の彼は、父と同じ漆器職人でした。その時も漆器に取り組んでいました。1970年代から茶道に使う抹茶の容器である茶入れ(なつめ)を専門に取り扱っています。価格は75万円(7、200ドル)で富裕層からの委託注文を受けていました。1つの制作に3〜4カ月が必要でした。制作には、まずは野外散策で実物の花、鳥、あるいは昆虫をスケッチ。それを、漆の茶入れに金箔をほどこすのです。常にそれぞれのデザインを2つ作り、1つは自分が持っていました。自慢の1作は出口聖子四代教主の65歳誕生日への贈り物でした。インタビューの後、われわれは6年前にテレビ放映された、彼のビデオを見ました。正輝とその消えゆく技巧についての新たなドキメンタリーがまもなく放映されると聞きました。
 田中の父親が助けを求めた時、王仁三郎はそれぞれの子供の写真を見せるように言い、その写真をしっかりと眺めたあと、王仁三郎は、それぞれみんな生きている、そして、無事に帰って来ると断言しました。王仁三郎はそれぞれの写真の裏に朱肉で3回、親指で拇印を押しました。「王仁三郎は父に向って、『わしは、正輝が必ず無事に帰ってくるようにする』と、言い、それは、ちょうど私の写真に3つの拇印を押している時だったそうです」と、田中は語ってくれました。
 田中は1946年、帰郷しました。また、3人の兄妹も帰り、王仁三郎が予言した通りでした。1949年、最後に帰ってきたのはシベリアにいた弟でした。みんな長生きでした。
 田中は、裏に王仁三郎の3つの拇印のある自分の写真を、私に見せてくれました。とても小さな親指でした。黄ばんだ白黒写真は、若々しい顔であるが、真面目そのもの、学生服に身を包んだ戦争前のものでした。若者の顔の輪郭は、現在の老齢な名匠のそれと変わっていません。若者の目は不安げで、老人の目は悲しそうでした。その悲しそうな目は、帰還兵で2つの戦闘経験を持つ、私の父の目と同じでした。田中の話し方は、ソフトで一本調子、言葉は少な目でした。田中は7年間の従軍経験がありました。最後の数年はニューギニア近くの島のジャングルで、オーストラリア人と戦いました。2度負傷。今でも胸郭のうしろには銃弾の破片が残っています。田中はインタビューした日の夜、ほろ酔い気分で本苑にやってきました。その時戦争の話をしましたが、幾分つじつまがあっていませんでした。8年前、奥さんが亡くなって以来、彼はお酒の量が増えたと別の信徒が教えてくれました。彼は毎晩本苑にやってきて温泉に入ります。私が本苑を出発する日の朝、田中は本苑にやってきて、感動的なジェスチャーで、吉岡発言の記念碑の前で私と写真を撮ることを提案しました。

実現した予言

 ある朝、私は通訳の矢野裕巳と本苑の周りを散歩しました。多くの温泉村がそうであるように、天然の温泉のそばに数軒の温泉旅館がありました。きれいな水がいたるところに流れています。温泉に加えて、吉岡は蛍でも有名です。村の入り口で、毎年7月に開催される蛍祭りの宣伝がなされていました。われわれは歩くのをやめて、足湯に浸かりました。足専門の温泉です。本苑から遠くないところに、村の広場にありました。(この村では全てが本苑の近くにありました。)痩せ型で筋骨たくましい魚売りと、ぽっちゃりした妻がトラックのうしろで商品を販売していました。魚売りは毎朝1時30分に起き、その日に獲れた魚を仕入れ、多くの場所で販売していました。カレイ、サバ、カニ、キハダ、サザエ、うなぎ、そして英語では翻訳できない多くの魚を扱っていました。朝8時には、ほとんどの仕事を終えています。われわれが足湯でゆっくりしていると、血色のいい女性が、われわれの横に座りました。その女性と矢野は烏のように意気投合して話し始めました。彼女は80年以上この吉岡で暮らしています。足湯の向かいに今も建っている家で生まれ育ち、通りを1つ隔てた所に嫁に行きました。自らを村の主と考える彼女は、誰が足湯を使っているか調べに、毎日やってくるのです。

魚売り
世間話

 われわれは、もう一つの温泉に興味がありました。岩井温泉です。王仁三郎が物語の一部を口述したところです。肥田愛雄、退職したアマチュアの画家で、本苑の歴史を調べていました。肥田が岩井温泉へのガイド役を引き受けてくれました。第2次大本事件中、肥田の家族は竹田に移住、そこで出口京太郎とは同世代同士として大きくなりました。おとなしい肥田は71歳、私が参加した大本行事のすべてで彼を見かけました。信仰3世で1933年の元旦に亀岡で誕生しました。ある時母親は肥田をすみこの所へ連れて行き、すみこは母親に子供を王仁三郎の生誕地である穴太へ連れて行くように言いました。穴太の神社にお参りするように。
 「まだ、赤ん坊だったのでよく覚えていません。母から聞いただけです。」と肥田は答えます。
 肥田の記憶力は素晴らしかった。大本での伝承、言い伝えに没頭し、王仁三郎の吉岡滞在に関する資料や写真を集める作業に何年も費やしていました。肥田は1945年12月の暮れ、私の休憩室とされた旅館の部屋で王仁三郎に会っています。15歳になる少し前でした。吉岡での王仁三郎最後の滞在中、王仁三郎に会いたい人は、お金も交通手段もなく、ただ、長い距離を歩いて面会にやってきました、と肥田は思い起こします。
 肥田は車で岩井まで案内してくれました。吉岡から西に20kmでした。王仁三郎は岩井を気に入っていましたが、当時は吉岡から岩井までの交通機関はなく、王仁三郎も歩かなければならず、まる1日かかりました。第1次大本事件の際には28日間、岩井の旅館に缶詰状態で物語の口述に専念しました。その旅館は数年後、火事で焼け、その後も建て替えられることはありませんでした。1990年代に、その場所に野菜市場が出来ました。その市場を切り盛りする女性のお父さんは、王仁三郎を知っていました。われわれがそこを訪ねた日、父親は不在で、娘さんはほとんど昔のことは知りませんでした。それでも、彼女は、王仁三郎が滞在中、第1次大本事件のために当局による旅館の張込みが行なわれたことは、聞いていると答えてくれました。娘さんは2枚の古びた写真を見せてくれました。ああ、そうだ、全く同じ写真を肥田は持っていました。もう少し保存状態は良かったです。1枚の写真は大きな3階建ての旅館で、これが全焼するなら、火事はかなり大きなものだったでしょう。もう1枚は王仁三郎がショールを被って布団で横になっているものです。手にはタバコを持って。顔は夢心地で、筆録者は王仁三郎の横に座っていました。その写真から、旅館を消失させた火事はきっと不注意な喫煙者から出たに違いないと思いました。
 50代の矢野は、岩井は1950年代から60年代の日本を思い起こさせると、繰り返し語っていました。映画やテレビのディレクターがスタッフを伴って岩井に来て、その時代を背景にした場面を撮影するとのことでした。実際、われわれが訪れた時にもテレビの収録が行われていました。町を流れる川の中心的な橋から、色鮮やかな鯉の群れを発見。それは、人口800人の村の、これ以上ない興味深い光景でした。私が今までに見たどの鯉より大きなものもありました。少なくても80歳以上でしょう。数年前に若い鯉を川に放流した人がいたそうです。そしてえさを与え、ここまで世話をしてきたのでしょう。橋には標識があり、この地の歴史と、ここでのつりは禁止で罰金の対象になると書いてありました。鷹が、もちろん字は読めませんが、川へ急降下を何度か試みますが、成功できませんでした。
 岩井の後、肥田はもう一カ所へわれわれを案内してくれました。
 われわれは浦富までドライブしました。海岸沿いの村で、岩井からおよそ20km。王仁三郎とすみこが何度か滞在した旅館があります。なお、王仁三郎、すみこが1901年、綾部へ神火を持ち帰る出雲への道中に、立ち寄ったかもしれません。確かなことは誰もわかりません。鳥取はそのルートにあたり、当時旅館はオープンしたばかりでした。
 浦富は日本海に突き出た突端の岬にあり、その海岸は冬の太陽にキラキラと輝く美しい白砂の優美な帯状の地でした。波に遊ぶ2人のサーファーを除けば、この風の強い12月には、人気のない海岸でした。海岸から見える2つの小さな島があります。その1つの向島には神社があり、今でも月に一度、漁師が海の幸をお供えして祭典をしています。

浦富の海岸。向島神社(左)

 肥田は旅館を見つけました。83歳の竹間吉春は、王仁三郎、すみこを知る大本信徒。つい最近、59年間の旅館経営から退きました。誰が旅館経営を引き継ぐのか、それとも完全に旅館を閉めるのかは定かではありません。ひいき目にみても旅館は老朽化が進んでいました。しかし、築100年を考えれば納得します。かすかに残る白髪と表情豊かな顔で竹間は日本人版のジョン•バリーモアの晩年といったところです。邪悪な銀行家ポッターを演じた「素晴らしきかな人生は」で有名です。でも竹間は平和で静かな人生を送ってきました。4人の知らない人が突然押し掛けてきて、犬の集団のように矢継ぎ早に質問しました。竹間はうまくそれをさばいていました。

竹間吉春

われわれは2階に案内されました。そこは、王仁三郎とすみこが滞在した場所です。そこからは、さえぎるものもなく海岸と向島を眺めることができます。今、下に見えるアスファルトの道や街灯は、当時ここに座って外を眺めたすみこには見ることができなかったと思われます。
 竹間さんが宿を切り盛りし始めたのは、王仁三郎の訪問が終わってからです。彼は、かつて綾部の大本で奉仕したことがありました。綾部には当時母親が住んでおり、彼が20歳ごろでした。臨時の仕事で、すみこの手伝いをしていました。1940年代の前半で、ちょうど王仁三郎とすみこが刑務所から自由の身になった直後でした。すみこは多くの時間を織物に費やしていました。すみこが推奨した「鶴山織り」と呼ばれるものでした。鶴、山、織物を意味します。鶴山は別名本宮山。日本語にはちょっと嫌になるところがあります。同じ場所にもかかわらず、さまざまな呼び名があるのです。本宮山には、鶴山を含めて3つの違った呼び名があります。近くの和知川も、私が知る限り、もう一つの呼び名があります。
 竹間は、時松の特派の仕事に関係するすみこの話を語ってくれました。当時、すみこは炭火の火鉢を毎日囲んでいました。その火鉢で訪問客にもちを焼いてふるまっていました。だれもが、すみこに会いにきました。竹間は記憶をたどりながら語ります。ある日のこと、年配の信徒がすみこの元にやって来ました。事件も終わり、新しい信徒へのお導きについて、報告にやってきたのでした。
 すみこは「入信させるだけで、全てが終わったわけではなく、その後の指導が大事です。大本での新しい生活へのお導きが肝要です」と彼に話しました。

歴史を研究している肥田愛雄
田賀紀之鳥取本苑長(当時)

 昼食を田賀本苑長と取るため、鳥取市へ車で戻る途中、こうやま池と呼ばれる大きな人工池に立ち止まりました。冬の太陽が水面に反射してきらめいていました。磨き上げられたグラスのように、滑らかで、輝いて。アーチ型の橋はおよそ岸から300m離れた、自然がそのまま残る島までつながっていました。肥田によれば、大本の支部が毎年、その島で、4月の桜のころ、茶会を開くそうです。その橋は80年代に作られました。いつかここに橋ができることを、1945年に王仁三郎は預言していました。肥田は王仁三郎の真珠のような数々の預言の宝庫でした。私は鳥取での4日間の滞在後、この地域は王仁三郎の特別な霊的資産を得る土地ではないかと感じました。王仁三郎のこの地への訪問が、あまりに多くの未来図と啓示を生み出したからです。
 王仁三郎が生涯にどれだけの予言を生み出したか、そして、その的中率はどうだったのか? 誰も計算と集計をしたものはいません。大本の職員の中には、長年王仁三郎の預言に間違いがあるかどうか研究した人もいるようです。ここに1つの話があり、それは1つの言い伝えになっています。数年前、大本の職員がイスラエルに出張しました。彼はエルサレムに関する記述のある1冊の霊界物語を現地に持参しました。その中に、王仁三郎は詳細にエルサレムについて書いています。王仁三郎は1度も現地を訪れたことはなかったのですが。その職員はその王仁三郎の記述に沿って現地を調べ、その詳細の正確さを実証したのです。
 王仁三郎の予言の1つについて、私自身もその一端を担う体験をしました。そのことによって、私は王仁三郎のすべてとは言わないまでも、その多くの予言は正確ではないかと思い始めました。月次祭後の講話の前に、田賀は、講師の私を70人の信徒に紹介しました。王仁三郎はかつて、この鳥取本苑に多くの外国人が訪れると予言したというのです。歴史をよく知る肥田は、彼の知る限り私はその最初の外国人だそうです。田賀は、少なくとも王仁三郎の予言は成就したと高らかに述べました。参拝者は、大きく賛同の拍手を送ってくれました。特に筧邦麿は、騒々しくそのボクサーの手でバチバチと拍手しました。私は人生で多くの仕事に関わってきましたが、初めて予言の完成の役割を果たしました。

関連記事

ページ上部へ戻る