ノモンハン3 of aizenkai

★モンゴル・ノモンハン紀行
「ハルハ河東岸・往復2千キロ草原の道」(その3)

その3 「ハルハ河東岸に入る」


山崎 光男

 草原で一夜を明かした翌朝28日、日の出と共に起床、ご来光を皆で拝んだ。食卓には骨付きの肉の塊があった。ガゼルの肉を塩ゆでにしたものであった。ナイフで切り取って紅茶に入れるとおいしかった。臭みがなくて羊より上等であった。昔は5、6百万頭も生息していたらしいが、今はすっかり減少してしまった。

 朝食を済ますとテントを撤収し目指すスンベリ村に出発。途中、サンゲンダダの塩湖で塩を買った。湖畔には白い塩の山がいくつも野積みしてあった。最高級品であった。やがて数時間でスンベリ村に到着した。50メートル眼下にはハルハ河と東岸が見えた。私たちの車は西岸の高台に止まっていたが、いくつかの軍の施設が見えた。

 1939年のハルハ河戦争当時、ロシア軍のジューコフ将軍やチョイバルサン将軍も、この西岸の高地から日本軍の動向を探り作戦を練ったにちがいない。資料によれば、5月11日から9月16日の停戦成立までをノモンハン事件と称した。

 この夜、私たちは博物館のある建物に宿泊することが決まった。当時のロシア製戦車や日本軍の野砲などが展示されていて生々しかった。小休憩のあと国境警備の詰め所に向かいパスポートを提出したあと、係官が東岸の激戦地跡へ案内してくれた。折しも稲妻が走り、あたりが夕闇に包まれ始めた。慰霊碑のあるノロ高地にたどり着いたときには激しい雷雨となっていた。
 私たちは、お地蔵さんが建立されている前で線香を焚きお経や祝詞をそれぞれに唱えた。女性の方々は涙ぐんでいた。この地で、はからずも戦死した方々のことを思うと、涙がこみ上げてきてどうにもならないので、祝詞奏上に全神経を集中した。不思議なことに、お経や祝詞が終わると雨がピタリと止んでしまった。

 このノロ高地からホルステイン川を挟んで北にノモンハンという地名がある。中国領内であった。逆に南下すればハロンアルシャインである。出口聖師の騎馬隊がやって来た下ムチズ、上ムチズに近い。当時、赤軍に阻まれなければ、このハルハ河あたりを通過したにちがいないと思った。
 もちろん、ここからウランバートルに向かうには、あの果てしもない草原を行軍しなくてはならない。身を隠す場所がないから、敵に発見されれば無事にはすまなかっただろう。


「ウランバートルへの帰路」

 翌日の29日、博物館の館長さんがハルハ河戦争について説明をしてくださった。東岸全体が激戦地となって真っ赤な血の海となったという。今でも、武器弾薬の破片が散乱しているのだそうだ。

 午前中、ゆっくりと休んだあと昼食を取り、再び同じ道を戻ることになった。帰路は一転して雨模様となった。土ホコリはないが草原は水びたしとなった。車の轍に水がたまりハンドルの操作が忙しくなった。川は増水しておりルートを何度も見失った。
 アンハー親子が泥沼の道を必死に探した。さすがのラジアルタイヤも空回りするばかりであった。泥が跳ね上がりウインドウにへばりついた。外は何も見えなくなった。こんなところで立往生したら、私たちはどうなるのか。救援隊など期待しても無駄な感じがした。

 そうこうするうちに、ワゴン車がようやくのことで崖を上りきった。4輪駆動のおかげだった。雨はますます強く降り出した。今夜は草原の中でキャンプしかないと思っていたが、カナダの石油会社が原油を掘削している現場に遭遇した。
 運がよかった。26日にウランバートルを出発してから、はじめてシャワーを浴びることができた。さすがに石油会社であった。

 翌日の30日、草原の道は相変わらず水びたしだった。雨雲は私たちの後を追ってきたのだ。ようやく、雨乞いを頼まれたアンハーの故郷ムンフハーン村まで戻ってきた。ウランバートルまで400キロほどある。どういうわけか、この村には未だ雨がないのである。ここへ戻るまでの道中あれほど雨に見舞われたのに。 
私は一本のローソクに灯を燈し、就寝する準備に入った。明かりを消そうとすると、同室のBさんが夜中にトイレに行くとき明かりがあったほうがよいだろうと言ったので、灯を燈したまま寝ることにした。

 私は天津のりとを心の中で奏上しながら眠り込んでしまった。真夜中、目が覚めると、ものすごい豪雨だった。ローソクを一晩中燈したおかげであったかもしれない。日本では雨を降らすのは竜神さまのおかげであったが、このモンゴルで竜神の話などしたら頭の変な人ということになるらしい。

 最後に、ハルハ河戦争の資料の一つに次のようなことが記してあった。「日本軍当局者は、モンゴルの人々の心理や物の見方をほとんど理解しようとしなかった」。
 人類愛善会モンゴルセンターは今年の6月ようやく設立されたばかりである。私にしたところで、この国の人々の心理や物の見方について、今は何も知らないのである。国際関係の業務は、いずれの分野にしても、まず、現地の人々を知ることからスタートしなくてはならない。この時、最大の障壁となるには、自国の文化や常識への優越感であろう。

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