バチカン フェリックスja of aizenkai



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バチカン諸宗教対話評議会副議長 フェリックス・マチャード師

”「第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会」で講演 2005.11.29 ”

macyado.jpg このような素晴らしいお集まりの中でお話出来ます事は私にとって大きな誇りであります。世界連邦日本宗教委員会会長広瀬静水先生に心からお礼申し上げます。

  •  またこの大会開催に関わってこられました世界連邦日本宗教委員会の方々に感謝を表明したいと思います。世界平和の為に、我々は未来に向けて何ができるかを考えてみましょう。それには、過去に学ぶ事によって、とりわけ、広島、長崎を忘れずに核戦争を憎まなけれなりません。

 新しい未来を築くために、私達は過去に学ばなければなりません。私は1981年故教皇ヨハネパウロ2世の広島訪問を思い起こします。

 すべての戦争は人間が作りだしたものであります。私達は強く断言しなければなりません。戦争はけっして避けられないものではないという事を。人間は自己破壊する運命をもっているわけではありません。理念、願望、そして必要性による衝突は戦争、暴力以外の手段で解決されるべきであり、また解決できるのです。違いや紛争を平和的手段で解決する事は私達自身の義務であります。

 私達すべての信仰をもつものは世界に対して宣言します。私達は和解された世界を構築するために前進いたします。それは未来を静かに見つめることのできる世界です。

世界の宗教における平和のテーマ

machado.jpg 平和への人間の願いはすべての宗教のなかで表現されています。この願いに関する記述は人間の人生と神との関係のなかで、様々な宗教の教典において重要な部分を占めています。

 もしその願いが人間の根本であり本質的、普遍的なものならば、あらゆる宗教の信徒に支持されるべきであります。その信徒が政治家、国際組織の指導者であろうと、ビジネスマン、労働者、であろうと支持されるべきであります。

 私達キリスト教徒にとってイエス、キリストは平和のシンボルです。ユダヤ人の友人にとって『シャロム』は自分自身が自然、神との調和の中における願望と祝福を表します。イスラムの方々にとって『サラム』はとても重要で、神の名前を用いています。

 ヒンドウー教ではベーダーの祈りは平和への道への献身です。
アタルバ=ベーダーでは、
 天に平和を!地に平和を! 広い天地に平和を! 流れる水に平和を! 植物、ハーブに平和を! 私達の未来のしるしに平和を! すでに行われた事に対して平和を! まだ行われていない事に平和を! 現在の存在に平和を! 未来の存在に平和を! と唱えています。

 また、お釈迦様は非暴力を説いておられます。そして平和をその教えの中心に置いておられます。ダマパダによれば、この世の憎しみは憎しみによって癒される事はないと教えています。憎しみのないところでのみ憎しみは解消することができるのです。これは、永遠の法則です。

 地域によってさまざまな名前で呼ばれている伝統的宗教によれば、平和は単に戦争や争いのないことではありません。能動的平和は目に見えるものと目に見えないもの、神と人、全宇宙や歴史という現実との調和の中に存在します。

 平和は多様性へのバランスと尊敬を前提とされます。伝統的宗教における平和はコミューン主義により進められるべきです。個人主義によってではありません。ここで言うコミューン主義とは、自然一般に対する責任、管理の感覚を植え付ける大地や海との関係なのです。

 人はすべての物を所有できるかもしれません。健康、富み、配偶者、子供、知識、技術、力、栄光を。しかしこれらすべてのものに依存していない神様の贈り物が欠落していれば、たとえほかのすべてを所有していてもきわめてみじめな存在になります。神様からの贈り物がなければ、その他の所有物は意味がないのです。その神様の贈り物は人間にとって本当の意味での祝福です。それは平和です。

 人間の充足感は平和なしでは不十分です。一方他のすべての物が不足していても、自分自身の心の中に平和をもち、他との平和を保つ事のできる人は実際には幸福といえるでしょう。

 ベーダ(ヒンズー教最古の聖典)ではこの事を深くとなえ、すべての初め、終わりのマントラの力を結集して平和を喚起することの必要性をたえず訴えています。外的不和、内的不安定では、何ごとも成就する事は出来ません。世界や人間生活のなかで平和を基盤におかなければ何ごとも成就できないのです。

 平和はもっとも大切な神からの贈り物です。このことは、とりわけキリスト教徒の立場から強調することが重要であると思います。全能の神はこの贈り物を人間にさずけられました。

 平和は多様な物質的利害の表面的バランスではなく、人が探究すべき本質的なものであります。それは道徳と美徳の果実です。

 神はもっとも重要な基盤、すなわち普遍的真実やすべての存在の最高の善であるので、人間は平和に対してその探究を神から始めなければならないでしょう。この意味で平和は神から生まれるもので、神がその土台なのです。

 神は人間に使用し発達させる為の創造を与えられただけでなく、人間の意識の中に法律を与えたのでした。神は神の姿で人間を創造する時にその掟に従うように、基本的人権と共にその力をさずけたのでした。

 神は人が心の中に平和を見つけ、人生で、世界でそれを実践するのを助けてくれます。実際人の能力には限りがあります。人は人生で過ちを犯し、悪に走る事があります。そして常に多くの問題に直面し物質欲にかられ、分別のない、利己主義的な本能によって正しい道から逸脱します。

 それゆえ神に対して自分を開く必要があります。神は人の過ちを浄め攻撃的な感情から人を解放してくれるのです。神は人の心から離れたところに存在するのではなく、日々の祈りや正義の実践のなかに存在します。

konko.jpg金光教泉尾教会 それゆえ平和は神や隣人との交流の賜物なのです。
 またすべての贈り物には責任が伴います。

 人は平和の贈り物を受け取り、歴史の中で個人として、コミューン主義による平和を作り上げる責任から逃れる事ができません。このことは、神からの平和の贈り物が人類のプロジェクトになることの説明です。善良なる人々は皆、このプロジェクトに参加する必要があります。憎しみ、暴力、戦争をきっぱりと放棄することによって。正義、平和、そして調和促進へ働きかけることによって。

 信仰あるものは、宗教間の対話をより強固に押し進める必要があります。共に努力して道徳的価値を維持するためです。伝統的概念の結婚や家族を維持し、親としての権利を守ります。人間の生命自身が脅かされる時、生命誕生や人間の死について、様々な宗教が団結してその生命を守ろうとします。

 宗派の垣根をこえた対話を通して、我々は人権について多くの問題に触れなければなりません。個人や社会、国際関係における正義の欠如は、現代の世界に多くの不安要素を与えています。その不安要素はしばしば暴力紛争勃発につながっていきます。

 紛争の原因を宗教に押し付ける人達がいます。次のようなスローガンを耳にします。『宗教間の平和なくして世界の平和はありえない』この考えは誤解を招きやすいのです。またこの意味するところがすべての社会の問題、すべての紛争の根源が宗教にあるというのならば、きわめて不公平な解釈といわねばなりません。実際その根源には経済的、社会的また政治的な問題が潜んでいます。

 しかしこのスローガンは真実も含んでいます。宗教的違いが緊張を生み出し、反対勢力を造り上げている事があります。その意味でも共に宗際運動をすすめる事はきわめて大きな意味をもっているのです。

 宗教指導者は現在の紛争を平和的解決へ導く環境を共に築く事ができるのです。私は将来に対して希望で一杯になりました。それは2002年1月24日アシジでヨハネ、パウロ二世のもとにそれぞれの宗教代表者が共通の約束をもって集まった時でした。

 それは次のような宣言でした。私達は暴力やテロが本当の真の宗教とは相容れない事を強く宣言します。そして神の名の元の戦争、宗教、暴力へのすべての訴えを非難すると共にテロの根本的原因を取り除くため、可能な限り努力します。

 お互いに敬愛し尊敬するよう人々を導きましょう。様々な民族、文化、宗教間の平和的そして兄弟愛に満ちた共存をもたらすために。対話の文化を促進するための努力をつづけましょう。個人や民族間の理解、相互信頼を高めるために。これらの事は真の平和への前提です。

 率直に忍耐強く対話につとめましょう。私達の違いを克服出来ない障害として考えないでおきましょう。そうではなく、違いと向き合う事はより大きな相互理解の機会であると考えましょう。(諸宗教対話、、、)

真実への探究は恒久平和への礎となります。

 平和は信仰あるものが隔離された生活を選択し、自分自身をとざし、他人に対して心を閉ざして自己満足に落ち入る時、大きな危機に直面します。もし、ある人が自分は真実を知っていて、自分以外はすべて間違っていると考え、他人の意見に耳を傾けなければいかなる関係も成り立たないでしょう。

 間違いと間違いに落ち入っている人を見分ける事が重要です。たとえ真実が自分の側にあると確信していても、真実の観点において他人が間違っていても、あるいは不十分な知識がその方向性を失わせているとしても、またその間違いが宗教的あるいは貴い倫理的基準から逸脱していても、その人々が個人の尊厳を失う事はけっしてありません。彼等もまた常に尊敬をもって扱われるべきであります。

 宗際対話はつねに我々の前にある真実への道しるべとなるのです。

 対話において重要な事の1つは偏見の克服です。

 導入時の正確な情報は過った考えや否定的な視点、また理解の障害を克服する最初のステップです。宗教の垣根を超えた対話においては、相手に対して自分と同じ尊厳をもった人間であるという事をまず受け入れる事です。

 これは、私達がみな究極的な真実において同じ考えをもっている事を意味しているわけではありません。もちろん様々な宗教の信徒は根本的に違いをもっています。しかし、真実の前に正直にたってみれば、すべての宗教の信徒は違った考えの人達にも心を開き、神への素直な気持ちをあらわし、問題に対処しながら自分を高め、努力する事ができるはずです。

 真実の別の側面は誠実さです。お互いの信頼においてまた実りある対話への本質的部分です。真の信頼がないところでは、疑いや不誠実さゆえに、対話は不可能なのです。信頼の土壌が創造され、友情の橋が建設されなければなりません。お互いの誠実な関係が築かれなければなりません。

 265代現法王ベネディクト16世はその就任の翌日就任式に参加された様々な宗派の人々の前ではっきりと述べらました。宗教間の垣根をこえた友情の橋を建設することによって諸宗教との対話を継続する事を望むと。イタリア以外の最初の訪問においては、べネディクト16世は前任者であるヨハネ、パウロ2世の足跡を受け継ぎ、ドイツではユダヤ教のシナゴーグを訪問し、イスラム教の指導者と会合を持ちました。

 法王ベネディクトは宗教的原理主義と宗教的相対主義は宗際対話における敵であると述べておられます。それぞれの宗教は本来一つの世界のなかで自分達の宗教を表しています。それぞれの宗教は固有の原則のもと存在します。

 たとえば、キリスト教では、他との同意を得る為に犠牲を払ってまでその本質的教義を放棄する事はできません。宗際対話の目的は共通合意に達する事ではなく相互の敬愛と深い友情で共存する事なのですから。

 宗際対話を押し進める一方、ベネディクト16世は信仰ある者が相対主義に落ち入る危険についても警告されています。

内なる平和育成それは世界平和構築に不可欠なもの

machado5.jpg金光教泉尾教会  人間の心の中に平和がなければ世界に平和をもたらす事は難しいでしょう。とりわけ、アジアの様々な宗教は、心の平和の重要性を強調しています。ヒンズー教、仏教、ジャイナ教等です。しかしキリスト教でもその長い歴史の中で心の平和を大切に考えてきました。たとえば、修道院の生活を通して心の平和を養います。

 平和は人の心の中に生まれ、それが果実となり、世界に植えられていくのです。心に平和を培う事は世界平和構築には不可欠なものです。静かに、そして慎重に、しかし人生を効果的に見つめる修道士の生活は私達が今日求めている平和への道なのです。

 この目的を達成するために、修道士達は祈り、瞑想、観相(じっくりと考えること)によって心に平和を求めます。もし祈りや瞑想が無視されるなら平和への構築は粉々になるでしょう。

 1986年、アシジで開かれた平和の祈りでは、故ヨハネ、パウロ2世は祈りと瞑想の必要性、とりわけ平和を構築することの重要性を説かれました。

 参加者に次のように説きました。『このようにたくさんの指導者がこの祈りに集まった事は世界に認識させてくれます。平和をもたらす別の形が存在する事を。それは、交渉によるものでもなく、政治的妥協でもなく、経済的取り引きの結果でもありません。それは、祈りによるものです。その祈りとは宗教の多様性のなかで、人類の力を超えた絶対的な力との関係を築く事なのです。

 2002年再びアシジに参集した参加者に対して、ヨハネ、パウロ2世は述べられました。『もし平和が神の贈り物であり、神にその根源があるならば、深く、密接な神との関係を築くことなくしてどのように平和をもたらす事ができるでしょうか?平和の秩序、正義、自由を築くには祈りを最も大事な事と考えなければなりません。祈りによって、神に心を開き、神の声を聞く耳を持ち、神と対話する事です。そして最後に神と一体になることです。それは真の平和の最高の源泉です。」

 祈りの意味についてさらに詳しく、パウロ2世は続けられました。『祈る事は歴史や問題からの逃避ではありません。それどころか祈りは現実に直面するための選択なのです。その祈りの力は自分自身の力ではなく、より高い神の究極的な力からくる真実や愛の力です。悪の反逆に直面する時信仰をもつ人は絶対的な善である神に頼ります。信仰を持つ人はたとえ最大の困難に直面しても個人の責任において神にその問題に対処できる勇気を得る為祈るのです。けっして運命論として諦観するのでなく、また衝動的な行動もとらないはずです。」

平和と発展は宗教の問題

machado4.jpg 平和と、そしてその必要条件とされる、すべての人々の成長もまた宗教の問題です。それは聖職者として、私達修道士、修道女の使命に対する忠実さにかかっています。

 信仰を持つ人間は個人や民族として不可欠な成長の過程の中で平和のテーマを探究しなければなりません。あなたが自分自身の成長を求めなければ、すべての平和は危険にされされるでしょう。

 すべての人間の権利への尊敬は平和を築く礎であります。もちろん、そこには常に、権利に対する義務があり、それらは、人間の本質から直接、同時に流れてくるものです。

 グローバライゼーションの現象は、民族の連帯意識を尊重することなく進められており、信仰をもつ人々に深刻な懸念となっています。

 すべての信仰者は問いかけなければなりません。『どのような変化か起こっているのか、そしてその影響は? すべての人がグローバル市場の恩恵をこうむっているのでしょうか?すべての人が最後には平和を享受できるのでしょうか? 国家間の関係はより平等になるのでしょうか? あるいは、民族間、国家間の競争、ライバル心は人類により大きな不安定要因を与えないのでしょうか?』

 問題は簡単に言えば、連帯意識のグローバル化を確かなものにすることです。グローバライゼーションによって弱者が隅においやられてはなりません。これは、正義におけるはっきりした義務であり、国家の経済的、社会的、文化的組織のなかで深刻な道徳的かかわりを持っているのです。

 「発展成長は平和の新しい名前です。」

 次の問いかけをしましょう。『真の平和は男女、子供が十分な人間として尊厳のなかで暮らす事の出来ないときに存在するでしょうか?、ある特定のグループや国家が他を犠牲にして恩恵をこうむる関係の世界。それは社会的、経済的、そして政治的な関係において、そのような世界で恒久平和は築けるのでしょうか? 私達は皆その尊厳において平等であるという素晴らしい真実の有効な認識なくして真の平和を確立できるのでしょうか?」

 人々の不可欠な成長はすべての成長プロジェクトの目的であり評価であります。個人や社会に真に恩恵をもたらす価値を促進する必要があります。

 艱難に落ち入っている人に手を差し伸べるだけでは十分ではありません。私達は困った人が自分の力で新しい人生を築く手助けをし、そして尊厳と正義に満ちて、社会で正当な地位を得るように導かなければなりません。

 発展とはもはやある状態や経済的状態を向上させるための言葉だけではありません。発展とは究極的には平和の問題です。なぜならば、発展は他人にとっての善なるものを達成し、人間社会全体を向上させるのに役立つからなのです。

世界に平和を確立するにはすべての宗教の連帯が必要です

machado2.jpg  諸宗教対話はその根源が神にある愛の行為であると私は深く信じています。宗教間に存在する根本的違いを認識しながら、信仰あるものは世界平和の促進に寄与しなければなりません。

 お互いの違いに敬意を払われるべきであります。しかし平和への障害になってはいけません。違いはそれを理解することにより克服されるべきであります。

 世界中の宗教者の交流が広がってきたおかげで、信仰ある者は人類全体の向上についてかなりの責任を認識するようになってきました。

 宗際対話の結果信仰ある者は発達の過程において能動的な力になってきました。それゆえ人類に確かな希望をあたえます。様々な事例において、かりに過去の宗際対話が共同作業でより整理された活動ならば、明らかにより効果があったことでしょう。

 もちろん平和の大儀のため積極的な協力の目的に様々な宗派の信仰者が到達するにはまだまだ長い道のりであります。平和の為に働く決意をしましょう。とりわけ私達個人個人の正しい内面を限りない行動と態度で示しましょう。

 落ち着き、バランス、自己コントロール、そして理解しようとする行動、許すことや寛容は人々の環境、宗教や社会に平和をつくり出そうとする影響をあたえるでしょう。

 宗教的垣根を超えて信徒は声を大きくする必要があります。何時いかなる時も憎しみ、暴力、侵略や戦争に対して反対の声をあげなければなりません。戦争は人類の敗北です。命、すべての生きとしいけるものへの尊敬を!すべての人間の権利への敬意は私達にとって最も優先すべき問題なのです。

宗教の自由、様々な宗教社会の中の平和への条件

 自由は人々が責任をもって平和にむかって行動する為に重要です。上から押し付けられた解決策、また、それを自分の気持ちに反して受け入れた事は続きません。だから平和プロセスは1部の人間の限定された交渉ではなく紛争に直接かかわる民衆の意見も取り入れなければならないのです。

 『人は尊敬に値する生まれながらの権利を有しています。自分の名を傷つけない権利をもっています。人は真実を探究する自由をもっています。そして道徳的秩序や共通の利益の範囲内で言論や出版の自由をもっています。またどのような職業にもつける自由があります。人は公の事がらについて正確に知らされる権利ももっています。」(ヨハネ23世)

 道徳的秩序や共通の利益に関する条件はこの権利に注意を呼びかけます。情報入手についてはある分野では必要な秘密を守るという考えが要求されるのです。

 名誉をひぼうする主張、憎しみを駆り立てる扇動は言論の自由では正当化されません。しかし自由の原則は残ります。個人でも、公でもそれは尊重されます。

 宗教はその根本的な権利を保護する役割を演じています。宗教はコミニケーションネットワークの重要な役割を果たしています。またその役割を果たす事ができるのです。

 宗教は一般的な意見の形成に役立っています。宗教は社会が懸念する問題に関して人々を教育する義務があります。とりわけ道徳的観点から指導しなければなりません。宗教はまた人間の尊厳に対して敬意を払い、それを守る事をくり返し伝えなければなりません。これら宗教者の声は連帯する事によってより力強くなるのです。

 それゆえ宗教指導者の共同声明が既成の宗際グループからであろうと、臨時の実行委員会のようなものからのものであろうと大きな力を持つのです。この仕事を達成する為には宗教は自由を享受しなければならないのです。

 自由は人間の最も高貴な特権です。そして先ず第一に社会における宗教の自由を考えなければなりません。

 宗教を求める事は真実への探究と密接に関連してきます。真実は人間の尊厳への正しい考えにそって求められなければなりません。その研究は自由で、教育、指導、コミニケーションや対話によって実行されなければなりません。

 カトリック教会は第2バチカン会議で厳粛に次のようなことを宣言しました。「人間は信仰の自由をもっています。この自由は個人的また社会的な立場として、いかなる人間の抑圧から免れる自由です。それは、自分の信条に反するいかなる宗教的な行動にも強要されないことなのです。また自分自身の信条にそって行動する事が制約されないことでもあるのです。私的レベルであれ、公的レベルであれ、また1人の個人としてまた他人との関係において正当な限度の範囲内であればです。

 信教の自由は人権のまさに中心部分を占めています。その不可侵性は自己の良心によって個人が自分の宗教を変える権利さえ認めなければなりません。人々はあらゆる状況で自己の良心にしたがって行動しなければなりません。また良心に反する行動を強要されることはありません。(国際人権宣言 18条)

 良心や宗教の自由は人類が道徳的に探究すべき客観的真実の相対主義を表しているわけではありません。いかなる国家も人の宗教的信条に対して直接的、間接的な圧力をかけられない事ははっきりと示されています。個人や共同体の信仰告白、公的な宗教の実践に対してそれを自分の思いのまま押しつけたり、妨害することは出来ません。

 故ヨハネ、パウロ2世はこの点について次のように話されています。

 「宗教に対する自由の権利とは個人の宗教的告白や組織、また所属するコミニティーに対して信仰する者は正確で重い責任を負うということです。まず宗教指導者は個人的、政治的、あるいは社会的な利害にとらわれる事なく自分達の教えを示さなくてなりません。そしてそれは、平和的共存やそれぞれの個人の自由に対して、一致した形で敬意を示さなければなりません。

 昨今私的また公的に国内、国外の組織が差別や迫害の犠牲者を守ろうとする努力がなされています。かれらの宗教的信念は評価されなければなりません。」

 人間の良心に根ざされた宗教的特質は平和問題に特別なインパクトを与えます。そして、その自由な表現を妨害し圧力を加えようとする試みは全て当然ながら平和な社会の実現にきわめて否定的な影響を与えるのです。

 信仰の自由はまた真に自由な市民を生み出すことにも貢献します。信仰の自由は人々により大き責任を感じる義務の遂行につながります。平和への最も重要な条件は人々の強い道徳的高潔さと信仰の自由です。

 国の中には反倫理的な改宗活動を禁止するための法律が導入されていたり、またその導入が検討されています。禁止されるのが改宗活動ならばそれは特定の宗教に対する行き過ぎた手段と考えなければなりません。そしてそのような法律が正当化されるのかもしれません。しかしもし1つの宗教から別の宗教への道筋が禁止されるのなら信教の自由という根本的側面からも、大きな矛盾をはらんでいると考えてよいでしょう。

 また相互主義と言う問題もあります。宗教的少数派の平等な扱いについてです。

 これはまず礼拝所をもつという事です。もうすこし狭い範囲で考えれば安全保障という名の元に妨害されることなく礼拝のために参集する事です。民間当局が信仰を持つ人の家での礼拝を保障するだけでは十分ではありません。

 宗教は共同体としての側面を持っており共通の礼拝堂で共に祈る権利をもっています。宗教的共同体は表現の自由を権利をももつべきです。信徒の啓発のための出版活動も必要です。そしてそのような出版物を輸出する事もできるのです。

 さらにこれらの共同体は自分達の考えを宣伝することもできなければなりません。

 もちろん公的秩序に配慮しなければなりません。また既成宗教や他の宗教共同体に対しての配慮のない出版物や説教を当が禁止しようとすることは理解出来ることです。しかしその共同体が不当な存在として非難されるなら、それは信教の自由に対する権利の侵害といえるでしょう。

結論

machado3.jpg 世界は平和を望んでいます。世界は心から平和を熱望しています。ではどうして人は戦争をおこすのでしょうか?どうして人は人間の命を破壊するのでしょうか?

 広島、長崎を訪問して私は自分に問いかけました。被害にあった人を即座に助け出そうとする人がいるなかで、人はどうして暗黙の内に戦争計画を支持するのでしょうか?戦争は恥ずべき事で、けっして人類にとって英雄的な行動ではありません。命を大切に考える人は平和を愛する人です。

 宗教の垣根を超えた信徒は平和を促し、築き、啓発し生活するためにかけがえのない役割を果たすのです。それぞれの共同体に暮らす信徒、またより広い社会に住む信徒は平和で調和のとれた生きざまの具体的な模範にならなければなりません。

 この事を達成するためには新しいイニシャティヴが取られなければなりません。平和への困難や障害を乗り越える試みがなされるのです。

 ますます増大する世界の紛争状況を考えれば新しい平和のエネルギーを育てなければなりません。宗教はその貴重な源なのです。

 最後に1993年イタリア、ミラノでの会合に参加された宗教指導者によって調印されたアピールをご紹介して私の講演を締めくくりたいと思います。

憎しみが消えますように!
紛争がなくなりますように!
戦争がけっして宗教によってかき立てられませんように!
けっして戦争が宗教に正当化されませんように!
宗教によって語られる言葉は常に平和の言葉でありますように!
信仰の道が対話と理解へとつながりますように!
宗教が地上に平和をもたらしますように!
人々がこの大地を愛し、共に愛しあいことができるよう、宗教がその力となりますように!
dansho.jpg出口 紅・人類愛善会5代総裁と談笑する マチャード師

バチカン諸宗教対話評議会副議長 フェリックスマチャード