米国人ジャーナリスト ビル・ロバーツ氏著《素顔の大本》より 第7章「第2次大本事件」

 2006年2月3日発行の「A Portrait of Oomoto 」(素顔の大本)の和訳を連載します。この本は、日本語を読まない外国人を対象に、英文で大本を理解してもらうため、当時の大本国際部から、ジャーナリストのビル•ロバーツ氏(ピュリツァー賞受賞者)に執筆依頼し、発行となりました。一人の未信徒の米国知識人の目から、大本を客観的に披露しています。発行から14年たち、内容的には、現在進行形ではありませんが、今でも興味深く読める点がたくさんあります。最初から順に紹介するのではなく、章ごとにピックアップして発表します。今回は、第7章「第2次大本事件」を掲載します。
                                          和訳 矢野裕巳

 

第7章「第2次大本事件」

 

 「魂を失ったように、私はさまよっていました。人生の難題の何かを模索しながら。そして、最後に、大本にたどり着きました」 出口日出麿 

 周藤奈津子は、大本での9年間の奉仕を終えて、1934年に、出雲に戻りました。その時、出口王仁三郎から、哀れみの女性菩薩、墨絵観音のお軸を頂きました。その時、王仁三郎は、「もしこれをなくしたら、もう別のはあげないよ」と言いました。70年後、そのお軸は、私が奈津子と会った家の神床に、かかっていました。多くの大本信徒宅では、居間にご神前がありました。長男の登紀男が1976年に改築した家には、3歳と5歳のひ孫を含め4世代が同居していました。奈津子の前、3代にわたり、家族は島根県出雲平野の中央に位置するこの土地を所有していました。島根は全国で2番目に人口の少ない県でしたが、かつて、その10分の1が大本信徒でした。80年代の大本内紛で、神の家が崩壊し、多くの信徒が反教団勢力に加わりました。反教団が本来の本苑を占拠し、信徒は出雲市に新たなお宮を建設しました。
 2つの低い丘の間、およそ15km×8kmの広さの出雲平野の多くは、海面下に位置し、地元民は300年以上前から干拓を始めました。いたるところに稲田があります。出雲の主な生産物は米で、その大半は他府県で販売されています。周藤家は水田に囲まれ、島の上に位置しているように思えました。周藤家は専業農家でしたが、兼業で米を作っている家庭もありました。換金作物としての小麦は、地ビールのハーンビール製造のためです。ラフカディオ•ハーン小泉八雲(1850年ー1904年)の名を取っています。ギリシャ、アイルランドを祖先とした作家で1892年ハーパーズ誌の記者として来日し、日本で亡くなります。日本を英語圏の人々に伝えた最初の作家の1人でした。ハーンは結婚し、大本の神の家の近く、松江で2年間暮らしました。
 私が出雲を訪れたのは、田植えの時期で、サギ、そして、少し大きめなヒメアカクロサギが水田に降り立っていました。米の苗木を食べる虫やカエルを追い払っていました。白鷺といえば、大本へ初めて来た時、漂白剤のビンと間違ったことがあります。周藤さんと話している間もサギの鳴き声が聞こえました。物悲しく聞こえ、むらのない青色でしたが、白色であったかもしれません。
 93歳にして、周藤さんは今でも、朝夕拝を欠かさず、支部の月次祭にもよく参拝します。頭も気持ちも実年齢よりずっと若く見えました。「シニア向けのデイサービスに通っています。来ている人はみんな私よりずっと若いけど、多くは認知症の人ですね」

 みずみずしい銀白色の髪がその小さな顔に比べて大きくみえる耳を隠していました。顔に刻まれた深いしわ、でも羽織と呼ばれる伝統的な絹の上着からのぞく首はすべすべしていました。周藤さんはすぼめた唇で物思わしげに耳を傾け、時ににこやかに笑いながら力強く答えてくれました。
 大本での昔のことはあまり覚えていないと言いながら、日時、行事、そして人々を思い出そうとしていました。時に長男が彼女の記憶に異議を唱えると、自分の記憶が正しいと言い張りました。写真について丹念に1枚ずつ説明してくれました。あたかも昨日の出来事のように。亀岡を離れて以来、初めてエスペラント語を披露してくれ、また「希望の夜明け(La Tagiĝo)」も覚えていて歌ってくれました。周藤さんは、戦後、出雲で最後に王仁三郎に会った、と話してくれました。この時、われわれは、この記憶は怪しいと考えました。戦後、王仁三郎は、ほとんど巡教していないからです。後に私は、王仁三郎最後の旅行が1946年の出雲であり、それは1901年、なお、すみこと共に訪れた巡礼を記念するお祝いの訪問であったと確認しました。
 王仁三郎の勧めで、周藤は大本で勤務している時、短歌を始めました。当時の勤務は完全に無給の奉仕でした。それ以後、90歳を越えた現在でも短歌を作り、大本の雑誌に投稿しています。彼女は俳句もたしなみ、その句が書かれたノートを見せてくれました。奉仕時代に八雲琴も習い、祭典にも出ました。当時まだ若かった出口直日は、茶道を修行の1つとして奉仕者に奨励していました。そういうわけで、お茶もかじっていました。出雲に帰って、両親が決めた相手と結婚した後は、短歌を除いて、すべてのお稽古事はやめてしまいました。彼女の夫は大本の信徒で、第2次世界大戦従軍中に病死しました。周藤さんは、頑張り続け、土地を耕し、5人の子供を育てました。成人した子供の4人は熱心な信徒です。
 周藤さんの両親は大本信徒で、母親は出口なおにも会っています。周藤さんは1926年、15歳の時に初めて綾部に行きました。母親と5日間の道場修行を受けるためでした。小学校を卒業したばかりでしたが、父親は、周藤さんが大本に残り、そこで奉仕することを勧めました。周藤さんは綾部で2年間、1928年から1934年までの6年間は亀岡の天声社(印刷会社)で働きました。周藤さんが王仁三郎に初めて会ったのは1926年でした。
 「聖師さまが出張された時、当時は本当に頻繁でしたが、いつも亀岡駅、綾部駅にお迎えに行ったものです」 「聖師さまが不在の時は、すみこ二代教主が朝夕拝の先達をされていました」 
  かつて、周藤さんはすみこから手作りのお茶碗をもらいました。そのお茶碗で今でも毎日ご飯を食べています。これが、長生きの理由だと述べました。遺伝も大きいはずで、周藤さんのお父さんも100歳まで生きました。
  周藤さんは綾部から亀岡に移り、6年間を印刷所で過ごしました。当時、天声社は最新設備を持ち、外部からの仕事も引き受け営業を伸ばしていました。30人以上の従業員を抱えるこの印刷所の主なる目的は、『霊界物語』の発行でした。王仁三郎は印刷所をしばしば訪れ、仕上がりをチェクしていました。周藤さんは物語の全巻について関わったようです。当時、「ページの印刷が終わると、束を綴じる前に、折ってページをそろえる必要がありました」。周藤さんの仕事は、折ってページを正しくそろえることでした。
  「私たちは毎日、毎日本当に忙しくて」と周藤さんは思い出していました。「聖師さまは、当時出版活動にすごく力を入れておられました。次から次に、書籍が出来上がるところを見回り、時に、立ち止まって監督されていました」
  「霊界物語は読まれましたか?」私は質問しました。「81巻すべて、最初から最後まで拝読していますよ」
  私にはその返答を疑う理由はありませんでした。

 

霊界物語

 王仁三郎は第1次大本事件では、保釈金で自由になりました。梅松苑を離れて、目立たないように綾部で、高熊山での体験を物語として口述し始めました。1921年10月18日、警察が本宮山の頂上にあったお宮をダイナマイトで爆破し始めた日でした。王仁三郎も筆録者も爆音を聞いていました。王仁三郎50歳、霊界旅行を語る機会を23年間待っていました。その内容とは。『霊界物語』は12年にわたって口述され、81巻、20万ページにものぼる:物語、詩歌、随筆、賛美歌、そして祈祷で、登場人物と筋書きのある小説形式になっています。王仁三郎の『霊界物語』となおの「お筆先」は大本の教典です。勇壮な物語は、どのようにして善なる神々が地上に楽園を築き、悪霊が改心するかを物語っています。多くの神々、人々が現れ、神話的、あるいは歴史的人物、また王仁三郎を含め時代の有名人も登場します。寓話的で抽象的なことばで預言と警告も示しています。それぞれは、少なくても36通りの解釈があるといわれています。その意味で大本の教学研鑚所には仕事が山積みといえるでしょう。
 自著『巨人 出口王仁三郎』で出口京太郎は、日本の学者のコメントを引用しています。「物語にはキリスト教、仏教、神道を包含する包括的哲学を含んでいます。そして、社会的思想が韻律の物語風形式で展開するのです」
 2つの弾圧に関する、未発表の博士論文の中で、トマス•ピーター•ナドルスキーは、「霊界物語の仕上がりは、古典的言語での印象深いもので、広範囲に及ぶ試みです。しかし、悲しいかな、簡潔さに欠けています。コーランやバイブルの後の試みとしては、より控えめな量の物語であったなら、大本教義について、一般読者に直接訴えかけるものになったはずです」
 内容の壮大な広がりは、控えめに表現することができないのです。王仁三郎は論じています、神性、神と人と関係、大本の起源、霊界について、宇宙の創造、世界の神政成就、道徳、政治、経済、教育、芸術、そしてその他の話題についても。そのうちの一巻は、王仁三郎が肉体として一度も訪れたことのない、エルサレムについて正確に描写されています。モンゴル探検、大本の礼拝方式についても詳述しています。他宗の教義も取り入れています。キリスト教の賛美歌を大本式に言い換え、仏教の教えについても語り、儒教、道教についても述べ、古代神道についても独自の解釈を展開しています。物語は、多くのすでに現実となった予言も含んでいます。エルサレムの状況、スリランカ、フォークランド紛争、そして日本についても、アメリカとの戦争、空襲、そして第2次世界大戦終了前の原爆投下等が挙げられます。物語では、平和と愛を高め、偏狭な愛国主義を非難、そして世界を救う思想を広めています。当時の日本政府が王仁三郎を脅威としたのはうなずけられます。
  口述期間中も、王仁三郎はその他の多くの活動に取り組んでいました。口述筆録者は3、4人が交代で当たっていました。王仁三郎が横になりながら、タバコをくゆらせ、口述している写真が残っています。筆録者が語ったことですが、王仁三郎は口述中、つねに霊感状態であり、ひらめきによって言葉が発せらていました。それでも、文章は一貫性が維持されていました。筆録者は、1字1句を記録しました。一定の間隔で止まり、筆録を訂正し、書き換えを求め、それからまた口述を再開しました。1冊の完成は、平均で3日でした。

霊界物語全国一斉拝読会

 第2巻の序文で、王仁三郎は次のように書いています。
 「この本はさまざまな霊界と神界での出来事の物話で、王仁三郎の霊が1898年の3月1日から7日までの1週間高熊山で見せられた体験です。その期間、王仁三郎は神界での霊的修行を命ぜられ、帰宅後また1週間床縛りの修行が命ぜられました。霊界においては、時間、空間は超越され、遠近、大小、明暗の区別はありません。そして、霊界での全ての出来事、過去と現在、東と西は、王仁三郎の霊眼に平面的に映し出されるので、その糸口を見つけ、なるべく読者の理解を得ることを主眼として物語を口述しました」
    宗教的意味合いは別にして、『霊界物語』は、日本以外では、ほとんど知られていませんが、バイブル、コーラン、バガバッドギーター(ヒンドゥー教の聖典とされる宗教叙事詩)そして、ベオウルフ(8世紀初めに書かれた古英語の叙事詩)やギルガメシュ(メソポタミア神話)のような歴史的長編小説に匹敵する文学的偉業だと思います。毎年、10月18日には、万祥殿で王仁三郎が口述を開始した日を記念して祭典が行われます。短い祭典の後、参拝者はそれぞれ、割り当られた一冊の物語を一斉に音読します。たとえ日本語が理解できても、神への帰依(宗教的実践)はまた別ものです。一斉拝読は30分程続きます。地方の信徒も参加し、亀岡と同時刻に始め、同時刻に拝読を終えます。私は、2度この一斉拝読会に参加し、1度は、英語に訳された部分を拝読しました。
 私が拝読した箇所から、ダンテの神曲地獄編を思い起こします。ただ一つ大きな違いは、ダンテは単に傍観者であったことで、ダンテは自分が見ていることに干渉は決してしていません。それに対して、王仁三郎は自身の霊的案内人があの世へ連れて行った時にも、人々を助けています。王仁三郎は特別なスカーフ、聖なる杖、そして、悪霊から守る呪文で自らを武装していました。次の一節は気持ちを悪くするものではなく、ハッピーエンドのお話です。
 「目の前に、多くの女性がいました。口から血を吐いているもの、腹を矢で突き刺されているもの、吸血鬼に吸われているもの、毒蛇を首に巻かれれているものがいました。みな途方もない悲鳴をあげ、苦悶と絶望の極みのなかで、ひたすら慈悲にすがっていました。拷問者は、竹槍を持って体のあらゆる部分をぐいぐいと突いていました。血がほとばしり、異臭を放っていました。まさに、恐ろしい光景です! 私は聖なる杖を左右左に振りました。1回、2回、3回! 彼女たちの苦しみは終わり、多くの女性は涙を流し、私の周りに来て、キスをしました」
 その他の箇所はユーモラスです。その一つは、魂の最終判断をする判決に、王仁三郎が立ち会っているところです。現界の法廷での策を弄する駆け引きなど存在せず、人々に容易に判決が下るように思いを巡らしています。霊的案内人は、法的な議論、上訴などは必要ないと説明しています。裁判官である王は、正確に人々が現界でおこなったことやその行いが賞罰に値することを知っているからです。
 『霊界物語』の第1巻は、需要の関係で2万部発行で10刷まで刷られました。それ以降は、およそ5万部の発行でした。周藤奈津子さんが、6年間、その装丁作業に多忙であったことが、窺い知れます。1度に1巻の発行でした。物語は検閲を受け、1935年から第2次世界大戦終了まで完全に発刊禁止となりました。戦後、大本は出版を再開します。当初、王仁三郎は120巻まで発行する考えもあったようです。81巻まで発行して第2次大本事件が勃発します。物語も事件の原因の一つだったかもしれません。王仁三郎はおよそ7年を牢獄で過ごし、自由の身になって数年を生きますが、新たな物語発行には取り組みませんでした。その創造的エネルギーを耀盌作陶に注ぎました。

 

第2次大本事件

 王仁三郎は天皇崩御の後、恩赦を受け、現実には第1次大本事件の終了でした。王仁三郎は大本再建に多忙を極めます。綾部、亀岡での新しい建物の再建が開始します。信徒は増えました。物語口述の時間も必要でした。1924年にはモンゴルにも出かけました(22章)。大本は最初の他宗教との広範な活動をアジア、ヨーロッパで開始します。1925年に人類愛善会を設立し、アジアにおける社会活動を展開します。その運動は戦後、復活し21世紀の現在も引き継がれています。
 大本は1920年代中ごろから30年代中ごろまでの10年間、ほぼ束縛を受けない活動を進め、その後、政府の取り締まりが始まります。第2次事件はまさに政治的なものでした。政府は、左翼政党、その他の新興宗教やリベラルなインテリ層や芸術家も弾圧しました。私見として、第2次大本事件の原因は、『霊界物語』と王仁三郎によって設立された新しい国家組織への人気の高まりであったと考えています。
 政府の見解からすれば、物語は王仁三郎が、第1次事件で破産した自分の新聞でまくしたてた内容と同じものであると考えました。王仁三郎は売れっ子の小説家のように、熱に浮かれたように、出版活動を推進します。好調な売れ行きで、大本への興味を呼び起こしました。王仁三郎は物語学習サークルの輪を広げ、読書会を奨励しました。大衆が物語に触れる機会をつくり、信徒には朗読会を奨励しました。物語の一部を演劇用に脚色し、数コマを映画作成に改作しました。その中には、王仁三郎自身が出演したものもありました。
 そして、昭和神聖会ができます。昭和は1926年に始まった元号で、神聖会は「神聖なる組織」を意味します。王仁三郎が1934年7月に昭和神聖会を立ち上げた時、漠然とした約束がなされました。「神聖なる皇室の道を賛美すること、そして人類愛善の実践を決意すること」。それは、政治と宗教間の新たな形で、王仁三郎をトップとした皇室中心の宗教社会主義者の連合を創造する王仁三郎の意図であると、メディアは報じました。会の目標は明確に示されたわけでなかったのですが、政府の介入で会が閉じられ、大本が粉砕されるまでの短期間において、良い成果を挙げました。
 1932年ー1935年は、悲惨な干ばつと飢饉(ききん)に襲われます。神聖会は政府がするべき救援活動に取りかかりました。王仁三郎は救援活動に取り組まない政府を公然と批判します。戦争が近いことを知った王仁三郎は、神聖会を通して空襲訓練を行います。それは、政府の逆鱗に触れました。神聖会について、最も脅威だったのはその会員数で、1年で800万人まで膨れ上がります。会員は政治家の中にも広がったと京太郎氏は自著で述べています。政治信条の違いを越え多くの日本人を動員する王仁三郎の力を、明らかな脅威と当時の政府は見なしたのでした。
 ここで、少し歴史を復習しましょう。日本は1895年に日清戦争に勝利し、講和条約で台湾を手に入れます。さらに、1905年、日露戦争にも勝利。1910年、韓国併合。第1次世界大戦では連合軍に味方するものの、アジアでの戦闘はありませんでした。大戦中、日本は連合軍に武器を売り、戦後、太平洋上の旧ドイツ領を手に入れます。軍部は、1931年、政府の許可なく満州に進軍し、傀儡(かいらい)国家を樹立します。この事件が政党政治の終わりを告げ、軍部の支配はますます強まり、ついに政府を乗っ取ってしまいます。日本はさらに軍備を強化し、世界規模の海軍を作り上げ、1937年、中国大陸で戦争を始めます。さらに、1941年、真珠湾を攻撃しました。多くの日本人は、自分たちの運命は大東亜共栄圏を構築し、西洋支配を防衛すべきであるとのプロパガンダを信じて、支持しました。軍部は特に中国、朝鮮半島へのソビエトの侵入を恐れていました。
 大本が発行する新聞の編集者、松本公夫氏は道場講話の中で、王仁三郎は自分が行う運動は軍国主義に代わり、平和を求める宗教的代案に思えると述べています。王仁三郎は、植民地政策については反対でしたが、アジアが精神的土壌の中で統一の必要性も述べています。「私の理解では、王仁三郎は植民地化についての善悪は一度も述べていません。しかし、ヨーロッパからのアジアの脱植民地化について、避けることはできませんでした」と、松本氏は話の中で述べました。王仁三郎は植民地化を利用して大本宣伝使を送り、そこに支部を建設し、その地域に他宗教との交流を作りあげました。
 王仁三郎は予知能力で、やがて訪れる戦争についても認知していました。日本の破滅、当局による大本の破壊。投獄、拷問、そして、優秀な信徒を亡くすことも。自分とすみこの監禁、そして生存。自分の運命を変えることができないのを王仁三郎は知っていました。神の意思に従うことが自分の使命であり、起こるべきことは起こらなければならいないことを認識していました。時に、自己の予知能力がまったく無力であることを感じたに違いありません。このことを裏付ける話が一つ。王仁三郎は、亀岡の城跡のお山に月宮殿の建設を開始しました。建設に携わる人たちに、石壁をできるだけ強固にするように励ましまた。そうすれば、警察が壊すのも骨が折れるだろうと言ったようです。皆は王仁三郎の予知能力を知っていたけれど、その言葉に困惑しました。予言通り、第2次事件の弾圧は凶暴の極みでした。政府はあらゆる手段を用いて教団を抹殺しようと決意したのでした。

 皆がそうであったように、周藤奈津子も1935年12月8日については、今でも鮮明に覚えています。出雲に戻り、結婚していました。大本信徒は、松江の神の家に集まっていました。歌祭前の祭典を控えていました。歌祭とは、王仁三郎によって復活された古代からの歌形式の祭典です。集まった人たちは、ご神前で期待を胸に抱いていました。王仁三郎とすみこのご臨席予定であったからです。周藤さんや何百人の信徒は、夜明け前、王仁三郎とすみこが滞在中の宍道湖近くの旅館で、あるいは、綾部や亀岡で、何が起こったのかは、まったく分かりませんでした。警告もなく、警察は何百人もの信徒の検挙を開始しました。王仁三郎は旅館で逮捕され、天皇転覆の陰謀を企てたとして告発されます。すみこはその時の逮捕ではなく、後に検挙され、王仁三郎とほぼ同期間、収監されました。すみこは歌祭に出席しましたが、何も語りませんでした。王仁三郎の不在は顕著でした。

出口日出麿。信徒が描いた肖像

 「皆はなぜ、そこに王仁三郎がいないのか、不思議に思っていました。われわれは皆、聖師さまが来られると信じていました。でも、来られませんでした」と周藤さんは答えました。「誰も聖師さまが捕まったなんて説明はありませんでした。二代さまはご存じでしたが、一言もそのことは話されませんでした。われわれがそのことを知ったのは、その日ずっと遅くなってからでした」
 周藤さんは、自分が働いていた印刷所でその経営にも関わっていた青年たちも逮捕されたことを知りませんでした。その中には2人の王仁三郎の義理の息子がいました。出口三千麿と出口日出麿です。結局、王仁三郎の5人の義理の息子のうち、4人が検挙されました。その1人である出口伊佐男はすみこ、王仁三郎とほぼ同期間、監房生活を余儀なくされます。
 私は京太郎氏になぜ政府は王仁三郎を死刑にしなかったのかと尋ねました。彼の分析では、王仁三郎には協力な信奉者、崇拝者がおり、もし彼が殺されれば、その反動はあまりにも大きくなるだろうということでした。第2次大本事件までに王仁三郎は60歳代となっていました。警察の計略は、日出麿や三千麿のような次の世代を潰すことにより、大本を破壊することでした。
 京太郎氏の近くに住む、従兄弟、尚雄氏へのインタビュー。私にとって、節分大祭の斎主というイメージの強い尚雄氏は、答えてくれました。「何人の信徒が拘束されたのかは、誰も正確には分かりません。少なくとも1、000人はいたと思います。警察は拷問によって、王仁三郎を裏切り、大本を売り渡すことを強要しました。警察は61人の教団幹部を徹底的に取り締まりました。自殺した者もいました。首を吊る者も。拷問に耐えられなかったのです」と尚雄氏は述べました。「警察は拷問による自白を強要。自分が間違っていたと言うまで拷問は継続されました。自殺を選んだ者も出ました。自白したり改宗した人の数は、非常に少なかったです」
 尚雄の父、三千麿は東京大学法学部卒で、卒業後、王仁三郎の末娘の尚江と結婚し、大本で働き始めました。法律で仕事をしたことはなかったのですが、法律を熟知していました。尚雄氏は彼の父が特に厳しい拷問を受けたのは、警察が、父の学歴を知り、法的立場で警察に挑むことを恐れたのだと、語りました。三千麿は3年間牢獄生活を送り、結核にかかります。それが、原因で1950年初頭、45歳で亡くなります。
 若者たちは拷問を受け、王仁三郎とすみこは監房で裁判を待っていました。前にも書きましたが、1938年の法廷においても、王仁三郎は司法を揶揄(やゆ)することに、まったく良心の呵責を感じていませんでした。司法そのものがあざけりの対象となっていたからです。王仁三郎は、釈放されるまでほぼ7年間を牢獄で過ごし、その後、完全に無罪となります。
 すみこも6年以上の投獄生活を送ります。現在の多くの信徒は、自分たちの父親や祖父がどのように逮捕され、解放されたか、そして、何らかの方法で出口家を助けようとしたかを語ってくれます。弾圧は本当に大きな影響を与えました。

 

庭の石のように

 誰よりも激しい拷問を受けて、生き残ったのは出口日出麿でした。1897年岡山県で高見元男として生まれました。1919年に京都大学入学。文学を学ぶ。そして大本との出会い。1928年、直日と結婚。出口日出麿となる。直日は1952年に三代教主に就任。日出麿は幼少より鋭い霊感の持ち主でした。そのことで悩み、精神科に頼ることもありました。その詳細については、詳しくは分かっていません。王仁三郎をよき理解者、師と仰いでいました。王仁三郎とすみこには成人した息子がいませんでした。明らかに、王仁三郎は、日出麿を自分の跡継ぎと考えていました。
 日出麿の立場、年齢から、まさに弾圧の標的になり、精神的衰弱に陥るまで拷問が加えられました。その後、日出麿は直日のもとに返されました。日出麿には、精神病院での長い闘病生活が必要でした。1992年12月25日、95歳での昇天までの残りの人生は、まさに隠遁生活そのものでした。
 日出麿が牢から解放されたのは、京太郎氏が5歳の時でした。京太郎は、父親が過ごした部屋からそれほど離れていない、自宅の小さな書斎で、インタビューに応じてくれました。その自宅は、かつて酪農業のために王仁三郎が手に入れた土地に建てられていました。天恩郷から2kmも離れていません。父親似の広いおでこ、浅い目、そしてとがった顎の京太郎は、自宅を案内してくれました。三代教主時代、直日はご神前と能舞台のある棟で暮らしていました。日出麿はもう一つの棟で生活していました。
 「お父さんとの生活はどのようなものでしたか?」と、京太郎に尋ねました。
 「われわれは普通の父と息子の関係ではありませんでした」と、京太郎は答えました。
 「父と私の最初の出会いは、精神病院でした。父は精神に異常をきたしていました。目はうつろで、頭の上に果物を乗せて、病棟をうろついていました。病院から帰った父に近づいても、何の反応もありません。まるで庭の石のようでした。とても悲しい思いがしました」
 戦争が終わりに近づいて、京太郎は父の変化に気づきはじめました。
 「戦況に関する予言を始めたのです。ガダルカナルの敗戦、南洋の島々への米軍の侵攻。最初は誰もその言動をまともに扱いませんでした。つじつまが合わなかったからでした。母が新聞から得る情報とかけ離れていたからです。新聞は日本軍の勝利を伝え続けていました」
 京太郎によれば、1943年、春のある日、父は正気に見えました。その時、直日は夫に問いかけます。
 「日本はこの戦争に勝てますか?」
    「いいや、われわれは負けます。」
    「私は、父は本当に気が狂っているのではないと思い始めました」と、京太郎は答えます。「周囲の人は皆、父は正気ではないと考えていましたが、われわれは、実はそうではないと考え始めました。予言が次々に的中し始めたのです。母はその後、父がある高い霊的境地に存在していると確信します。私は、父は神と人の間で、たえずトランス(入神)状態にあったと思っています。
 ほぼ40年にわたる教主在任期間において、直日は、折に触れて、夫にアドバイスを求めています。外部の人たちは、父は意思疎通ができないと考えていましたが。
 「母は最終的に、父が、われわれの住む世界から離れた霊的な境地に存在していると、結論づけました。母は日出麿先生と呼び始め、自分の祈りの中で、父に助けを求めました。母は、父が精神界から独自の形で、母を助けてくれていると確信するようになりました。教主として大本を導く中で、父は全面的に母を助けたと思いますが、母は、その実例を詳しく語ることはありませんでした」

竹田の様子

お抹茶接待を行っていた神戸本苑の3人の女の子。そのうち2人は双子。

 文才のある日出麿は、1919年から1929年まで日記を記します。1966年、大本本部はその日記を編集し、かなりの冊数となる、最初の本を出版しました。英語版では「In Search Of Meaning 」として読むことができます。私が全国の神の家を訪れると、多くの人がこの『信仰覚書』を激賞します。信徒は「お筆先」『霊界物語』を学びますが、日出麿の文章は心の琴線に触れると言います。私自身もこの本を読み、納得しました。日出麿は、混沌とした世界への現実的、かつ精神的な洞察力を提示してくれます。まるで、トマス•マートンやティク•ナット•ハンのように。
 本の前書きで日出麿は「自分は今、こうやって、この世に生まれさせられてきている以上、ここに何かの使命を持っているに違いない。けっして、世間的な華々しい、名誉や功名を得んがためにのみではなかろう。とにかく、自分というものが、この世にあったという記念には、何かを後世に残さねばならぬと思う」
 宗教的寛容について、「この世界には、自分たちの宗教だけが、唯一真の教えだと考え、他の教えを認めない人がいます。さらに、極端な考えを持つ人の中には、自分たちの教え以外を異端とみなす人もいます。これは、嘆かわしい誤解です。宗教や宗派はその時代、場所、状況、個人によってさまざまであることは、極めて自然なことなのです」
 精神を病んだ後、日出麿は再び執筆活動をすることはありませんでしたが、書や墨絵には関わりました。直日は日出麿の介護に専念します。とても強い女性でした。その他の出口家の女性たちがそうであったように。両親は獄中に、そして直日は4人の子供を育てました。日出麿が1943年、精神病院から出た後、直日は家族を竹田に移しました。人里離れた牧歌的な村で、綾部から北西60km離れています。亀岡には1952年に戻ってきます。大本は、事件中に竹田を取得していました。なぜか、当局はここを差し押さえませんでした。直日は、竹田で少しだけほっとすることができました。その他の信徒の家族も竹田に移住し、小さなコミュニティーができました。生まれて初めて、直日は農業に携わり、後に教主になってからも農業活動を推進しました。
 竹田の建物から朝来川の素晴らしい景色が見られます。頂上に城跡が残る虎臥山の麓の、狭い渓谷に位置しています。中心の建物は築350年の農家の家で保存状態がよく、大部分が木造です。私がそれまで見たなかで最も素晴らしい職人技の1つでした。特に内部の木工品が。敷地内の茶室の庭は、青々とした草と濃い苔に覆われていました。小川のようなものを挟んで飛び石がありました。大本のなかでも特に美しいところです。4月の大祭には、教主さまもご臨席されることがあります。
     私が大祭に参拝した時、竹田の桜は満開で、周囲の山はツツジの紫がちりばめられていました。山は、あたかも春の到来をさまざまな色合いで表現した抽象画のようでした。ジャクソン•ポロック(20世紀のアメリカの画家。抽象表現主義の代表的な画家。1912−1956)がさまざまな濃淡のグリーンを使っているところを想像してください。丘はまるで王仁三郎のお茶碗の色彩にも似ているように思われました。直会後、出口紅教主は縁側に腰掛け、手すりを持って、桜の花が散るのを鑑賞されていました。深い梅の色の着物と絹の紋織りの帯で、まるで江戸時代の木版画の人物のようでした。太陽はまぶしく、わずかなそよ風が、春の暖かさを鈍らせていました。午後の間ずっと、特徴あるうぐいすの鳴き声を楽しみました。その鳴き声は、北米のホイッパーウィルに少し似ていました。神戸本苑の3人の女の子が、庭でお茶をふるまってくれました。およそ100人の信徒がお手前を受けました。直日は、大本初の茶室を竹田に作りました。この茶室で茶会も行われました。
 昼も半ば過ぎ、私は、この静かな土地は少なくともある大本信徒にとって、弾圧の嵐と戦争からの隠れ場所になっていたのだと感じ始めました。その日はとても心地よい日だったので、そもそも、なぜ直日がこの地を家族の住む地にしたのかを忘れてしまいそうでした。もっとも、そのことを思い出させてくれるものがありました。
 2階の直日の部屋から、障子を開ければ、庭の桜の木を通して灰色のタイルの屋根がのぞき、かつて日出麿が住んでいた穀物倉の大きな化粧漆喰の建物が見えます。午後、信徒は日出麿の部屋を訪れました。日出麿の古い下駄がきちんと外に置かれてありました。庭に出る時に引っ掛けて歩くためです。その部屋に入ると、皆、聖なる場所にいるように、静まりかえりました。そこは、ただ、木の壁、床、そして天井のがらんとした部屋でした。中に入ると、皆は壁に注目していました。日出麿が木に走り書きされた漢字を、私に示してくれる人がいました。なおが独房の柱に釘を使って、艮の金神の言葉を書いたように、日出麿も釘を使っていました。私が認識できた漢字は「2月」だけでした。節分を思い起こしました。

 私は部屋を出て、太陽の下に立っていました。信徒が入れ替わり、部屋に入っては出てきました。部屋から出て涙を拭う人は、1人ではありませんでした。1人の若い父親が娘と部屋に入りました。数分後、おそらく5分ぐらいたって女の子は1人で出てきました。そして、片足を砂の中でひきずりながら、ぐるぐると円を描いていました。白い縁取りの黒いワンピースを着て、白いレースの靴下と黒いエナメルの靴を履いて、お人形のような女の子でした。しばらく1分は1人で遊んだ後、もどかしくなり、まだ部屋の中にいたお父さんを呼びました。「パパ、もっと奇麗なところへ連れてって」

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