米国人ジャーナリスト ビル・ロバーツ氏著《素顔の大本》より 第24章イスラエル・パレスチナとのつながり

 2006年2月3日発行の「A Portrait of Oomoto 」(素顔の大本)の和訳を連載します。この本は、日本語を読まない外国人を対象に、英文で大本を理解してもらうため、当時の大本国際部から、ジャーナリストのビル•ロバーツ氏(ピューリツァ賞受賞者)に執筆依頼し、発行となりました。1人の未信徒の米国知識人の目から、大本を客観的に披露しています。発行から14年たち、内容的には、現在進行形ではありませんが、今でも興味深く読める点がたくさんあります。最初から順に紹介するのではなく、章ごとにピックアップして発表します。今回は、2003年の綾部中東プロジェクトについて取材した、24章を掲載します。
                                           和訳 矢野裕巳

第24章 イスラエル・パレスチナとのつながり

 ダニエル•ベザレル。落ち着いた17歳の可愛いイスラエルの女の子は、日本に到着して4時間も経っていませんが、すでに彼女を迎える人たちのほとばしる友情に圧倒されていました。「ショックでした」と彼女は言います。数分前には綾部市役所の前で、感動的な式典がありました。7月下旬の猛暑の中、焼け付くほどの太陽のもとで。200人以上の綾部市民が喝采を叫びました。中学生の吹奏楽演奏、曲は今回のために作られました。大本の役員、四方八洲男市長及び、市の職員がイスラエル•パレスチナのグループとあいさつを交わしました。市役所から和知川を越え、高台にある、市唯一のホテル、ホテル綾部へ向う短い時間の間、ダニエルはその歓迎ぶりを思い出していました。「沢山の愛情を感じるわ」。バスがホテル綾部の駐車場に入った時、12人ほどのホテルのスタッフがそこで整列していました。それぞれが、パレスチナとイスラエルの小旗を振っています。その歓迎にダニエルは感極まりました。「感動したわ、本当に」。ダニエルは涙を抑えて言いました。

 パレスチナ、イスラエルからの訪問者は2003年、綾部市が招いた1週間のプログラムの参加者でした。お互いが話をし、遊び、和解することを手助けする目的です。一行は、イスラエル、パレスチナから、7人の10代の若者、そして、それぞれイスラエル、パレスチナ双方の大人の付き添いが同行しました。かつて、同様のプログラムがイスラエル、米国始め、いくつかの国々で開催されました。しかし、綾部プロジェクトはこの種のプログラムとしては、日本初といえるでしょう。後にいくつかの行事が他の日本の都市で開催されるようになりました。

 綾部プロジェクトの特徴は、それぞれの参加者が、それは大人の参加者を含めて家族の中で少なくとも1人、紛争で亡くなっている点です。イスラエルの付き添いで来日したアーロン•バーニアは「もし彼らが、自分たちの抱えるまさに個人的な憎しみ、悲哀、悲しみを克服できるなら、全てのイスラエル人とパレスチナ人は共に生きていくすべを学ぶでしょう」と述べています。バーニアの息子は1999年南レバノンで戦死しました。イスラエル国防軍の兵士としての兵役終了が、あと1カ月を切ったころでした。ダニエルの兄も1983年、戦死しています。

 バーニアの相方、パレスチナ人付き添いのアデル•ミスク博士は東エルサレムの著名な歯科医です。「われわれ双方の指導者が平和に導くことができないなら、われわれがそのための下地を準備するつもりです。われわれは双方の人々の間の真の平和のための基礎を整えているのです」と語ります。ミスクの父親は1992年、ユダヤ人入植者によって殺害されました。

 四方市長は、綾部プロジェクトの構想をエルサレムでの市長会議出席中にひらめきました。市長は、たとえ綾部(人口約4万人)のような小さな市でも、中東和平の手助けはできると信じています。四方市長や多くの大本信徒は、日本こそ、その役割を果たす努力をすべきだと考えています。第2次世界大戦後、綾部は世界的な平和活動に熱心で、世界連邦自治体宣言都市第1号になっています。四方市長の在任期間中、2000年に綾部とエルサレムは友好都市宣言を発表しました。綾部プロジェクトは、当然その宣言の延長線上から生まれたものです、と四方市長は語っています。

綾部市役所で市民の歓迎を受けるイスラエル、パレスチナの参加者

 市長はテルアビブのペレスセンターに綾部プロジェクト開催の協力を依頼しましたが、最終的には、イスラエル•パレスチナ遺族会が現地からの送り出し機関となりました。遺族会はイスラエル•パレスチナ双方の紛争犠牲者家族で構成され、平和と和解の取り組みを行っています。綾部プロジェクト参加の2人の世話人、そして参加した若者も遺族会のメンバーでした。四方市長がプロジェクトの責任者でしたが、大本の経済的、かつ人的協力がなければ、このプロジェクトは存在しなかったでしょう。大本は100万円を寄付(プロジェクトへの最大の寄付団体)し、実務スタッフ12人の大半は大本信徒でした。彼らのほとんどが英語を話し、イスラエル、パレスチの青年、英語を話す日本人の学生と共に1週間綾部、京都、東京を旅行しました。大本信徒の2人はこのプロジェクトの開催準備に数カ月前から取り組み、遺族会と連絡し交渉を続け、最終的に現地に飛び参加者を選抜しました。今後は、大本はこのようなプロジェクトにより積極的に関わろうとしています。

 綾部の人々のプロジェクトに対する取り組みは賞賛に値します。大本、そして地元の会社からの寄付はありましたが、およそ1千万円の運営費の85%は小口の個人献金でした。多くの綾部市民は、参加者に太鼓、踊り、書道、折り紙、そして茶道などを紹介し、入門の手ほどきをしました。参加者の浴衣の仕立てを買って出た女性もありました。8家族がホームスティを引き受けました。ホームスティはイスラエルとパレスチナの若者がペア1組になって、1家族に2泊の滞在をしました。多くの人が出迎え、レセプション、参加者の発表会に出向いてくれました。7人の女子学生が中東からの若者と共に行動しました。

パレスチナ人のソンドス(左)と歓迎する日本人
折り紙に挑戦するダニエル(イスラエル)
ダニエル(中央)。パレスチナのワラン(左)、アドハム(右)と共に

 

彼らは私たちと同じだ

 ダニエル。ほっそりした、こげ茶色の髪に深いハシバミ色の目をした女の子は、私の電話でのインタビューで、もっとも的確に自分の気持ちを表現してくれました。インタビューはプロジェクトが終わり、帰国した日から6週間後に行いました。「プログラムでの最も大きな衝撃は、同世代のパレスチナ人と知り合いになり、彼らのことをほんの少し以前より理解できたことでした。それまでは、パレスチナ人と時間を過ごしたことがありませんでした。共に時間を過ごして、驚くことは何もありませんでした。彼らはわれわれとまったく同じ普通の若者でした。パレスチナ人について、特別なことはなく、同じ人間だと感じただけでした。そのことを確信しました。日本人について学べたことも素晴らしい体験でした」

 利発で教養を備えた彼女は、綾部プロジェクトが全てを解決してくれるというような幻想を抱いてはいません。私たちが電話で話をした2003年9月9日、イスラエルのバス停でパレスチナ人による自爆テロが起こりました。少なくとも8人が殺害されました。数カ月ぶりの自爆テロでした。「実際、紛争がどうすれば解決するのか、私には分かりません」と完璧な英語で彼女は述べました。英語は、ほとんどテレビでアメリカの番組を見て覚えたと打ち明けてくれました。「毎回、これで平和が来ると思うと、今回のようなことが起こります。解決策は存在しないように思われますね、今のような状態が永遠に続くのでしょうか」

 プロジェクトによって紛争に対する彼女の考えが変化したわけではありません。「日本に行く前でも、私は2つの国が必要だと考えていました。すべての人々は共に平和で調和の中で生きるべきです。プロジェクトはその私の考えを強めました。パレスチナ人も自分たちの国を持つべきです」

 綾部市役所での対面式で、パレスチナ人の参加者、アドハム•ホスニーシャヒンは、聴衆に語りました「われわれは平和を作るためにやって来ました。どのように平和をもたらすかを示すために、このプロジェクトは素晴らしい集まりです」

 18歳で、すでに高校卒業したアドハムは、参加者の中で最も背が高く、年上でした。熱心にサッカーやバスケットボールをし、ダラス・カウボーイズのジャージとロサンゼルス・レイカーズのシャツを交互に着ていました。にこにこと輝くように微笑み、誰よりもよくしゃべりました。率直さと機知、そして、日本語を少しでも覚えようとする熱心さで、アドハムはすぐに人気者になりました。彼の母方はチャドの出身で60年ほど前メッカへの巡礼を行い、その後エルサレムに向かいました。エルサレムもまた、イスラム教徒にとって聖地です。そしてエルサレムから二度とチャドに戻りませんでした。父方は何代もエルサレムに暮らしています。アドハムの従兄弟は2000年9月、イスラエル軍に殺害されました。

バス内での議論。イタマル(左:イスラエル)、ネタ(中央:イスラエル)、アドハム(右:パレスチナ)

 アドハムは、日本への旅はイスラエルについての自分の否定的な先入観を変えた、と私に話しました。「2つの民族の平和と理解を促進するには、子供から始める必要があります。私たちこそ未来そのものなのです」

 電話インタビューの中で、ダニエルは言いました。「アドハムは、この旅の前までイスラエル人は大嫌いだったことを私たちに告白したんです。そして、今イスラエル人を見る目は、自分たちを見る目と同じようになりましたね。平和を望んでいるのです」

 四方氏は小さな市の市長ですが、コネクションがあり、京都市長、京都府知事、小泉純一郎首相との面会を実現させました。政治家は皆、テレビ取材を重要視するといわれていますが、その通りでした。報道レポーター、テレビ班は、関西空港到着から、1週間後の成田空港出発まで密着取材しました。テレビ局の中には毎夜報道するチャンネルもありました。綾部のホームスティ先での様子を特集する報道もありました。小泉首相との面談風景は、夜の5時に全国ニュースでテレビ報道されました。

付き添いのアーロン(左:イスラエル)とアデル(右:パレスチナ)

 1日目、同じ飛行機でテルアビブから出発し、20時間を過ごしたにもかかわらず、若者たちはお互いを注意深く見ていました。2日目、付添人たちはイスラエル、パレスチナの青年が混ざり合うように行事の運営を工夫する必要がありました。伝統的な日本芸術、例えば太鼓や地域の踊りなどを学びました。3日目、若者たちは、太鼓、日本の踊り、そして自分たちの地元の歌や踊りを、綾部に集まったおよそ1000人の聴衆の前で披露しました。4日目、長距離バスの中で、エルサレムの地位に関する、活発な、しかし、落ち着いた議論が自然発生的に始まりました。5日目、付添人たちはもはや、イスラエル、パレスチナを混ぜてグループ分けする必要がなくなりました。自然に混ざるようになっていました。6日目、多くの若者は腕を組んで歩いていました。7日目、日本を離れる時、母国での再会を誓いました。

一行は首相官邸で小泉首相と面談。全国放送に流れる

 四方市長のゴールは謙虚なものでした。「われわれができることは、この1週間の機会を彼らに提供することでした」と、このプロジェクト終了時に語りました。「帰国してから、この経験をどうするかは、彼らの問題です」

 継続する紛争下で、彼らが現地で会うことは困難でした。2003年、綾部プロジェクト反省会は、ペレス平和センターで準備されましたが、少なくともパレスチナ人の1人は、住んでいる町の外出禁止令によって出席できませんでした。悲しいことに、彼らが出会う機会は、現地ではなく、ここ日本の方が容易なのでした。2005年、2人の大本職員がエルサレムで綾部プロジェクト同窓会を開催しました。14人のうち10人と、2人の付き添いが参加しました。

小泉首相を囲んで。ソンドス(左:パレスチナ)とタリア(右:イスラエル)

 

エルサレムの歌祭

 イスラエルとパレスチナは、多くの理由で大本には大切です。綾部は大本にとってエルサレムなのです。大本信徒は、3つの宗教の聖地の重要性を十分に理解しています。エルサレムと綾部は、2000年に友好都市宣言を採択しました。姉妹都市と同様のものです。数十年にわたって、大本はイスラエルとさまざまな宗教的、文化的交流を開催してきました。昨今はパレスチナ側との関係も構築され、交流も活発になっています。大本の政治的スタンスは中立で、イスラエル、パレスチナ双方との外交官とも親しい関係を保っています。両サイドとの宗際活動も継続されています。

綾部での和太鼓の発表会。パレスチナ、イスラエル、日本の若者が合同で

 出口王仁三郎は、著書「霊界物語」の中でエルサレムについて詳細に述べています。神による世界の立て替え、立て直しでのエルサレムの役割を。王仁三郎はエルサレムに一度も行ったことはありません。しかし、彼のエルサレムについての描写は、その地理的位置やそこに住む人々について、執筆当時に入手可能なあらゆる文献を集めても、得られないほどの内容です。数年前、国際関係に関わる大本職員が霊界物語を持ち、エルサレムに出向し、物語に書かれている内容について現地で確認作業をしています。もし、「モンゴル訪問」が予定通り進んでいたならば、王仁三郎は、平和的手段でモンゴルからエルサレムを囲む「統一宗教王国」を設立するという壮大な希望を持っていました。実際、王仁三郎は「西王母」の能衣装一式をモンゴル行きの鞄に詰めていました。エルサレムで演能する心づもりでした。

 広瀬静水大本総長、5代教主の父は、私に語ってくれました。長く宗際運動に関わってきた中で、最も記憶に残る宗際イベントは、シナイ山の麓で執行された2つの合同礼拝でした。特に1979年の最初の合同礼拝でした。イスラエルは当時、平和条約締結でシナイ山をエジプトに返還したところでした。アンワル•サダトエジプト大統領は、砂漠の中の聖なる山の麓での合同礼拝に、世界の宗教指導者を招きました。サダトはすでに、1976年の日本訪問時に広瀬総長を含め、日本の宗教指導者と会っていました。そして、その日本の宗教指導者が、翌年1977年、カイロを訪問した時にもサダトは彼らと面談しています。その2つの機会に、われわれ日本人は、イスラエルと平和条約を結ぶようにと、サダト大統領に強く決断を促した、と広瀬総長は回顧します。広瀬総長によれば、サダト大統領とメナハム•ベギンイスラエル首相によって、ジミー•カーター米大統領仲介でその平和条約が結ばれた時、エジプト大統領はこの一か八かの決断の一端は日本の宗教指導者の説得もあったと語ったそうです。サダト大統領は感謝を込めて、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教のそれぞれの指導者と共に、日本人をシナイの祭典に招待したのでした。

 「聖なる山の麓での他の宗教指導者との交流は、印象的な体験でした」と総長は想起しました。80歳で肉体は弱って見えましたが、よく回転する頭で、日時、名前、そしてその他の事柄の詳細を、4半世紀を越えた昔の吉日の思い出を個人の全記録から取り出しました。合同礼拝は11月に行われました。シナイ山でも暑さが和らぐ季節でした。普段は灼熱地獄のようです。セキリュティの関係で、合同礼拝は直前に計画されました。広瀬総長、出口京太郎氏は3日前に案内を受けました。彼らはカイロに飛び、エジプト政府が聖職者をヘリコプターでシナイ山の麓まで運びました。

 「サダトは会うたびに強い印象を残す人物でした」。広瀬総長は言います。「鉄のような人物です。われわれが何を言っても返事は素早く、政治家として有能であると同時に、非常にスピリチュアルでもありました。良きイスラム教徒として1日5回のお祈りも行っていました」

 シナイ山に集まった聖職者たちは、自分たちの中で、合同礼拝なるものについて経験のあるのは、大本の広瀬総長と京太郎氏の2人だけだと気づきました。2人は急いで他の参加者を指導し、合同でお祈りをささげました。総長の記憶によると、サダト大統領はカイロに戻る前に、アラビア語で簡潔にあいさつしたそうです。「その録音したものを、私は今でもどこかに持っているはずです」と総長は述べました。

 イスラム原理主義テロリストが、1981年サダト大統領を殺害。その後、われわれは、ベギン首相と共にノーベル平和賞を受賞したエジプト大統領をたたえるために、もう一度シナイ山で祭典を行うことを決定しました。

仲良しに。サマ(左:パレスチナ)、モルベン(右:イスラエル)

「われわれが最初にシナイ山に行った時、サダト大統領にユダヤ人との合同の祈りを強く要請しました。彼はそれを実行に移し始めました。そして実際にユダヤ人に会ったのでした。われわれは彼が殺害された理由の1つかもしれないと考えました」と広瀬総長は言いました。「だからこそ、われわれはもう一度シナイ山に行きたかったのです。東京の駐日エジプト大使館からは、やめるように言われました。しかし、われわれは強い責任を感じ、実行に移しました」

 2度目の祭典は、1984年3月、行われました。多くの宗教グループが参加しました。山の麓での祭典のあと、聖職者たちは2,228メートルのシナイ山に登りました。

 このような経験を持つ大本に、中東はその重要性を認識させています。私がこの本を執筆中に、大本はNPO(非営利団体)設立の下地を作り始めました。その目的は、イスラエルとパレスチナ、そして日本との交流活動を運営することです。

 5代教主は2005年8月の歌祭で、エルサレムについてのご自身の深い気持ちを歌にして表されました。歌祭では短歌(5行で31音節)が朗詠者によって朗詠されます。教主さまは日本語で短歌をつくられます。それは、エスペラントと英語に翻訳され、3つの言葉で朗詠されました。ここに英語版があります。この英語版については私が責任を持っています。

   わが願ひ エスペラントの歌祭り 人類同胞(はらから)こぞりて エルサレムの野に

 教主さまがこのような示唆を出されば、大本信徒は注目します。エルサレムでの伝統的歌祭の開催は、綾部プロジェクトやシナイ山の麓での合同礼拝ほど困難なものではないと思います。そして、確かに王仁三郎のモンゴル訪問ほど困難を伴うものではないでしょう。

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